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2021年2月28日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2021. 12. 28 マタイによる福音書12:22-32 「内輪もめ論争」 望月修治

◆ 「霊に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」厳しい言葉です。そして難解な言葉であり、理解に苦しむ言葉です。どうしてかと言えば、このこと語ったのはイエスその人だからです。私たちは思っています。イエスのとりなしの働きは広く深くそしてあたたかく、その恵みはすべての人に及び、その罪は赦される、そう思っています。そうであるはずなのに、そのイエスが「赦されない罪がある」と言っているのはどうしたことか、理解できない。イエスの中に矛盾があるのではないのかとも思ってしまいます。

◆ この謎は、解き明かさなければなりません。まずどのような状況でイエスが語ったのか、そこから始めたいと思います。物語の発端は、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がいて、その人をイエスが癒したことから始まります。イエスに癒された人が、ものが言え、目が見えるようになったのを見て「群衆は皆驚いて言った」とあります。「驚いた」という言葉は「我を忘れる」という意味です。驚いて我を忘れ、茫然自失となることを指しています。そういう状態にありながら人々は同じ問いを抱きました。「この人はダビデの子ではないだろうか」。・・・この人こそ、自分たちが待ち望んでいた救い主ではないのか。ダビデの血筋を引く者の中からメシア、救い主がいつか現れるとユダヤの人々は信じ、語り継いできました。イエスが人を癒したのを見て群衆は驚き、いよいよ救い主が登場したのではないかと我を忘れました。「驚く」というのは「自分の外に出されてしまう」という意味でもあります。群衆は正気を失うほど驚き、我を忘れて、問わずにはおれなかったのです。「この人は、あるいはダビデの子ではあるまいか」。

◆ その時に、驚くことを拒否する人たちがいました。自分に理解できないことに対してあらがい、そう簡単に我を忘れてしまってはいけない、自分を捨ててはいけないと思っていた人たちがいました。ファリサイ派の人々です。ファリサイ派はユダヤ教のグループの一つです。祖先の時代から受け継がれてきたユダヤの掟、律法を厳格に守ることことこそ神の意志に沿うことだという信仰を大切にしていた人たちです。彼らも見ていました。目が見えず口の利けなかった人がイエスによって癒されるのを群衆と一緒に彼らも確かに見ていました。しかしイエスにうっかり感心してしまうことは、自分が自分でなくなることだと思ったのです。なぜなら、律法を厳格に守っている自分たちこそ神の心を知っていると思っていたからです。自分たちこそ神の働きを誰よりも先に見つけ出すことができると思っていたからです。

◆ ファリサイ派の人々は、自分たちの目の前でイエスが人を癒したことを、自分たちの理解できる枠の中で説明をつけようとします。彼らは言います。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。ベルゼブルとは「ハエの主人」という意味です。イエスの時代の人々は、例えば不治の病気になる、耳が聞こえなかったり、目が見えなかったり、精神的な面での病気になったりするのは悪霊が働いているからだと考えました。ベルゼブルというのはその悪霊たちの首領、あるいは神に敵対する悪しき力を象徴するものと見なされていました。イエスによって一人の人が癒された、それはイエスが悪霊の頭であるベルゼブルの力を借りて、悪霊を追い出したのだ、イエスは神の子なんかじゃなくて悪霊の仲間なのだというわけです。

◆ 病気を癒すイエスに対して、横やりを入れるのです。当時のユダヤで、社会的な意味で人を徹底的に抹殺するためには、「この人は悪霊の仲間だ」というレッテルを張ることが一番効果的な方法の一つでした。それに対して、イエスは挑戦的とも言える論争を展開します。もしもわたしが、悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているということになれば、わたしは悪霊の国の中に内乱を起こした反逆者ということになるではないか。それでどうして国が成り立っていけるのかとイエスは切り込みます。

◆ イエスを非難する人たちは、自分たちの納得がいかないならば、神の働きとは認めず、自分たちの判断を優先させます。しかしルカ福音書17:20-21で、イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と語っています。人と人との間、そこに思いを注ぐことの大切さを聖書は語ります。神の働く場をどんな人との間にも用意し,そこに神を迎えながら関係を作り、いろいろなことを一緒に取り組んで行く。そこに信仰を持って生きる者の独自性があり、豊かさがあります。いろんな奉仕をする、いろいろな働きをする、それらはキリスト者でなければできないというものではありません。キリスト者でない人も同じような働きを、むしろもっと踏み込んだ働きを担っておられる方がたくさんおられます。私たちがキリスト者としていろいろなことに取り組んで行く、その働きは何が違うのか。その働きに中に神が働く場を備えていろいろなことに向き合い、取り組んで行く。そのあり方にこそ信仰をもって生きる者の独自性、豊かさがあるのだと思います。

◆ 今日の箇所にはもう一つ解き明かさなければならないことがあります。「人の子に言い逆らう者は赦される」とイエスが語っていることです。「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし聖霊に言い逆らう者は、・・・赦されることがない。」(32節) これはどういう意味なのでしょうか。イエスは、自分に関わることだったら何を言われても我慢します、赦します。しかし神に逆らうことはさすがに認められません、赦されません、ということでしょうか。イエスが行った癒しの業をファリサイ派の人たちは「悪霊の頭の力によって、悪霊を追い出している」とみなしました。では私たちはどう見ているでしょうか。悪霊を追い出す、それは救い主であるイエスの力、権威によるものだと思っています。しかしその理解で、32節の言葉を読み解けるのでしょうか。イエスは自分の力が評価されなくても我慢している、耐えているということでしょうか。

◆ ヨハネ福音書14:10にこう記されています。「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」 癒しの業はイエスの超人的な力によるというのではなく、神がイエスを通して働くことによるのだということです。

◆ 加えてルカ福音書17:21で「神の国はあなたがたの間にある」とイエスは語っています。神の働きは人と人とがつながりつくる、そこに示されるのだというのが聖書のメッセージです。だからイエスは人と出会い、間を作り出し、そこに神を迎え、神がなす業である癒しを届けたのです。わたしの力だと言ったのではありません。「わたしの内におられる父が、その業を行ったのです」と語るのです。すべての根拠は神にあることをイエスは告げます。だからこう語ったのです。「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、赦されない」。すべての根拠である神の働きを否定することはするなとイエスは言った。それが聖書に記録され、伝えられているのです。

2021年3月14日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2021年3月14日(日)
復活前第3主日・受難節第4主日
説 教:「弟子たちの戸惑い」
    牧師 望月修治

聖 書:マタイによる福音書17章1〜13節
招 詞:ペトロの手紙Ⅱ 1章17〜18節
讃美歌:27,288(1番・2番),285(1番・4番),91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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