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2017年11月26日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2017.11.26  サムエル記上16:1-13           「選びと実り」(髙田)               
◆ 「そのころイスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士17.6)。おおよそ紀元前11世紀、イスラエルは12部族による緩やかな連合体を形成し、部族の単位において自治が行われ、イスラエル全体を治める指導者、王はいなかった。しかし、いざ外敵と戦争をするという場合には、軍を率いる暫定的な指導者を立てて対応をした。そうした人を聖書は士師と呼んでいる。今日の物語に登場するサムエルもそうした士師である。

◆ そのサムエルの時代、イスラエルを悩ませていたのはペリシテ人の存在であった。サムエルの若い間は彼が神の力を借りてペリシテを抑えたが、彼が年老いると、不安に駆られた人々はサムエルに王を立てるよう頼んだ。「我々にはどうしても王が必要なのです。われわれもまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」(8.19-20)。

◆ こうした人々の要求を聞いたサムエルは、それを邪悪な思いだと見た。彼が神に祈った時、神は「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」と語った(8.7)。王を立てよとの要求の背後には、自らの責任を誰かに転嫁しようという意図や、人間を偶像化して、それにすがりがちである人の姿を確認することができるだろう。

◆ サムエルも神も、その要求を渋々ながらに受け入れて王を立てることになり、かくしてイスラエル最初の王となったのがサウルであった。サムエルと神とはサウルを選び、彼に油を注いだ。油を注ぐというのは、王の任職の儀式だが、この時点ではそれが直ちに王の任職に繋がっているのではなく、神がその人を王とするという、神の側での決定の表明として描かれている──これはわたし達の聖礼典、すなわち洗礼や聖餐と同じであろう。

◆ 油を注がれたサウルは頭角を現し、イスラエルとユダの全軍をまとめ上げて周辺部族との戦争に圧勝し、そうして諸部族に認められて名実共に全イスラエルの王となる。しかし、そうした王の座と自らの力に安んじた彼は、次第に神に背く行いを重ねていくことになる。そんなサウルの行いに面して、サムエルはサウルを王としたことを深く悔やみ、嘆いた。その嘆きに神が答えるのが今日の箇所である。「いつまであなたはサウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。王となるべきものはベツレヘムのエッサイの息子たちの中にいる」と神はサムエルに告げる。

◆ サムエルはいけにえを捧げるためだと偽装をして、ベツレヘムへと向かった。村の長老は彼を出迎え、会食の席を準備し、エッサイの息子たちもその席に招かれた。サムエルはそこでエッサイの長男であるエリアブに目を留め、彼こそが王となるべきものだと思った。しかし神は言う。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。

◆ サムエルは神の言葉に従ってエッサイの七人の息子を見たが、何れもが王となるべきものではなかった。エッサイに尋ねてみると羊の番をしている末っ子がいるという。いけにえの食事には13歳以下の未成年は参加しないしきたりであったから、まだ小学生くらいの子だったのだろう。しかし、その子を連れてきてみると、神はサムエルに「これがその人だ」告げたのであった。未だ名も告げられていないその少年は、13節で初めてダビデという名であることが明かされる。何故、神は彼を選んだのだろうか。12節には「彼は血色がよく、目は美しく、姿も立派であった」とある。しかし、それが選びの理由にはならないことは既に示されていた。「主は心によって見る」。

◆ 人間が外見で人を判断するのに対して、神はその人の心を見て、そのことで人をお選びになるのか。ここで言われているのはそういうことではないだろう。というのも、私たち人間もまた人を判断する時には単にその人の外見や容姿によってだけではなく、その人の心を見ようとするからである。その人が善人か悪人か、どういった心根の持ち主か、私たちは日々他人を判断しながら生きている。

◆「人は目に映ることを見る」とは、人間のそうした判断の仕方を表すものである。それに対して、神はその心によって、御心によって人を判断し選ばれる。なぜダビデが選ばれたのか。それはどれだけダビデの中を探しても答えが得られるものではない。ただ神のこころの中に、御心の中にだけその選びの根拠があり答えがある。

◆ しかし、これは何も驚くようなことではない。私たち一人一人においても、同じことが起こっている。私たちはなぜ信仰を得るようになったのか。なぜ、キリスト者として立てられているのか。それは私たちが信仰深くあろうと努力してきたからか。私たちの心が愛に満ちているからか。私たちが信仰を持つに相応しいからか。あるいは信仰を持っているからか。そうではないのだとイエスは語った。「あなた方が私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハ15.16)。神が選んで下さったからこそ、私たちはこうして教会に集っているのである。

◆ しかしそうしてみれば、なぜ神はそのようにして選ばれたはずのサウルをお見捨てになったのか。幾ら神の御心が究めがたいといっても、勝手に選んでおいて勝手に見捨てるというのはひどいのではないか、そんなふうにも思われる。他方で、ダビデもまた、決して幸せに、そして信仰深く立派に生を送ったのではなかった。ダビデは何度も罪を犯し、その度に悔い改めるという生涯を送った。サウルのように神に見放されることはなかったものの、立派に失敗なく人生を送ったのではなかった。

◆ サウルやダビデの選びを見て思わされるのは、ひとたび神に選ばれた後に、どのような実を結ぶかは、選ばれた側に委ねられているということである。彼らは神に選ばれ、サムエルに油を注がれたその時点で、王となったのではなかった。彼らはそうした神の選びに答えていったが故に、その選びから後になって人々に王として認められたのである。この二人の物語は、生涯にわたってそうした選びに答え続けていくことが如何に困難なことであるかを同時に示している。

◆ 私たちはどうだろうか。神に選ばれて洗礼に与って以来、私たちを選び出してくださった神に答えて実を結んできただろうか。どうして私たちはサウルのように神に見捨てられることなく、こうして礼拝に集うことが許されているのだろうか。ルカ福音書にはこんな例えが記されている。ある人がぶどう園にいちじくの木を植え、実を探しに来たが見つからなかった。そこで園丁に「もう三年もの間、このいちじくの木に実を捜しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒してしまえ」と言うと、園丁は、「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。肥料をやってみれば来年は実がなるかもしれません」と答えた(ルカ13.6-9)。

◆ 神に見捨てられるべき私たちに変わって、神に見捨てられ、十字架に血を流して殺されたその方が、神との間を取りなして、私たちを招き続けて下さっているからこそ、私たちはここに立つことができている。この収穫感謝の日に、自らの信仰の実りを思い、そして、自らの罪を深く省みながら、希望の訪れを祝うクリスマスに向かって歩みを進めるものでありたい。

2017年12月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年12月10日(日)午前10時30分
降誕前第3主日
説 教:「口述筆記」
牧師 望月修治
聖 書:エレミヤ書36章1〜10節
招 詞:テモテへの手紙Ⅱ 4章1-2節
交読詩編:19;8-11
讃美歌:26,425,54,59,91(1番)

○礼拝場所:静和館4階ホール

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