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2016年5月29日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2016.5.29  ローマの信徒への手紙10:5-17「聞くことからその道は始まる」 望月修治

◆ ローマの信徒への手紙はパウロがまだローマを訪れる前に書かれた手紙であり、彼にとってまだ知らぬ人々、「未知なるローマの教会の人々」に宛てて書いた手紙です。パウロがこの手紙を書いた理由は何だったのでしょうか。その一つは、割礼と律法からの自由、解放を伝えることにありました。ユダヤの男子は割礼を受けること、また人々は律法の掟を守ることによって、神の救いにあずかることが出来る。これがユダヤの伝統的な理解であり、信仰の根本とされてきたことでした。しかしパウロはこの二つからの自由を福音の中身として語り続けました。そのためユダヤ教の立場からはむろんのことですが、同じクリスチャンの仲間でも、特にユダヤ人キリスト者たちはパウロの福音理解には強い違和感を覚えました。彼らはイエスの福音を受け入れながら、しかし一方ではユダヤの伝統も大事にしなければと考えていたからです。それゆえ下手をすればキリスト教の分裂を招きかねない厳しい状況が広がっていました。パウロはまだ訪れたことのないローマの教会の人々にも、彼が受けとめている福音について理解を得ると共に、ユダヤ人のキリスト者が主たる構成メンバーであるがゆえに、律法に対する姿勢を巡って、とかくぎくしゃくしがちなエルサレム教会との和解のために執り成しの役割を担ってほしいと願ったのです。

◆ 律法をどのように位置づけるのか、それは初代の教会の人たち、とくにユダヤ人でキリスト者となった人たちにとってきちんと整理し、解決しなければならない課題でした。マタイによる福音書(5:17)によれば、イエスは次のように語っています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」 そしてパウロはこのイエスの言葉を受けるかのように、このローマの信徒への手紙の今日の箇所のすぐ前、10:4で「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」と記しています。「信じる者すべてに義をもたらす」というのですが、パウロはこの「義」についてこの手紙の冒頭(1:17)で「福音には、神の義が啓示されています」という表現で語っています。さらに今日の箇所の最初5節に「律法による義」と「信仰による義」という言い方をしています。

◆「義」あるいは「正しさ」と言いますと義理人情の義とか、社会正義の義とか、道徳的な正しさといったように、個人個人のあり方や生き方がいかに整っているかということだと考えます。自分の正しさをよりどころとするというのは、よく分かる感覚です。しかし人間の正しさへのこだわりは時に他者を傷つけます。人は自分の過ちには寛大であり、自分の正しさには尊大になりがちです。他者の落ち度には実に厳しく、他者からの指摘にはかたくなに殻をとじ、逆にその相手を非難したり、おとしめるという形で自己弁護し、反発するからです。しかもそういう自分の姿に気付きません。正しさへのこだわりは他者を傷つけます。それはこの「正しさ」ということを自分の行動や言動に落ち度がなく、欠けた所もないことだと考えてしまうからだと思います。5節に「掟を守る人は掟によって生きる」とあるのはそのような生き方を指しています。

◆ しかし聖書に語られている「義」、「信仰による義」とパウロが語っているのは、個人のあり方を指しているのではありません。「信仰による義」とパウロが語る「義」というのは関係のあり方をあらわします。神と人との関係が望ましい状態にある、本来あるべき繋がり方をしている、そういう状態を「義である」と表現します。旧約聖書の言葉であるヘブライ語では「義」は「ツェデク」あるいは「ツェダーカー」(女性形)と言いますが、そのもともとの意味は「本当のことを言う」です。したがって本当のことを言える関係、つながりが「義である」というわけです。そして神は、人間と人間との間に本当のことが言える繋がりをつくりだすべく働いて下さるのだと旧約の時代の人々は考えたのです。「福音には、神の義が啓示されている」というのは「本当のことが言えるつながりを作りだすべく神は働いて下さっている。そのことがイエス・キリストの歩みと働きを通して、はっきりと分かるように示されている。だからイエスの出来事は福音すなわち喜ばしき知らせなのだ」ということです。お互いの間に本当のことを言える信頼があること、それが義であり、正しさなのです。あるいはそういう信頼をお互いの間に育てていこう、大切にして行こうとして生きること、それが義であり、また正しさと呼ばれていることの中身です。

◆ 旧約聖書の詩編32編にはそのような気持ちがうたわれています。32:3「わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。」・・・・本当のことが言えずに、うめき、苦しんで元気を失い、朽ち果ててしまいそうになったというのです。自分の本当をどこまでも隠して、取り繕った自分を押し通すことで切り抜けようとしていた時のしんどさ、苦しさを「骨まで朽ち果てる」あるいは「夏の日照りにあって衰え果てる」それほどのことだと切実にこの詩人は語っています。しかしこの現実のただ中で、詩人は、パウロが「福音には、神の義が啓示されている」という表現で言い表した奥義を見いだして行きます。それを詩編32:5で次のように語っています。「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」・・・・本当のことを神に告白し、苦しさから解放された。罪と過ちを神が赦して下さったことを深く感じることが出来たというのです。   

◆ 破れた自分をあからさまに告白するということは、さり気なくとは行きません。決断を必要としますし、また自分が傷ついたり恥ずかしい思いをしなければなりません。このことに関連してもう一箇所聖書を引用します。新約聖書のヘブライ人への手紙4:12です。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」・・・・神は全てを見分ける、人間の営みの表向きだけではなく、心の中の思いや考えをも見分ける。そのような方であるからこそ、自分のことを申し述べねばならない、本当のことを言わなければならないというのです。

◆ 詩編の詩人もヘブライ人への手紙を書いた人も神に告白する、主に本当のことを言わねばならないのだと語っています。それなら各自が心の中で密かに神様に本当のことを告白すればいいのでしょうか。神さまに密かに告白するだけで、心が軽くなるでしょうか。辛さや苦しさから解放されるでしょうか。人間は一人で生きているのではないのですから、告白も抽象的であったり、独り言で終わりというわけにはいきません。そのような告白は人を生かしません。もう一人の誰かに本当のことを言う、告白することが大事なのです。人間は一人で生きているのではないのですから、告白も抽象的であったり、独り言で終わりというわけにはいきません。そのような告白は人を生かしはしないからです。誰かに具体的に告白する、隠していたことを表に出す、そのことによって隠し事という名の罪は、人を縛り追い込む力を失うのです。そのことをパウロは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と語りました。

2016年6月12日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2016年6月12 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第5主日 こどもの日合同礼拝
説 教:「いつもいいことさがし」
牧師 望月修治
聖 書:マルコによる福音書
10章13~16節
招 詞:ヘブライ人への手紙4章12-13節
交読詩編:91;1-13
讃美歌:26、91(1番)

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