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2022年2月20日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書2章1〜12節 「易しさを見誤るな」 望月修治

◆ 私の二人のこどもたちがまだ幼かった頃は、夕ご飯を済ませ、風呂に入って、パジャマに着替え、布団に入るときに、絵本を読んであげるのが私の役割でした。毎晩、2冊ずつ好きな絵本、読んで欲しい絵本をこどもたちは本箱から持ってきて、私の右と左に寝転がり絵本の世界を旅します。こどもの時に何度も何度も読んでもらって心をワクワクさせながら絵本の世界を旅した体験は、大人になっても「そうそう、あの話!」と懐かしさとともに、生き生きと立ち上がってきて心の中に広がるのです。

◆ おそらくイエスも神の国の物語を繰り返し繰り返しユダヤの人々に語り聞かせたのです。そして人々はその物語に何度も聞き入って、心を踊らせたのだと思います。2節に「イエスが御言葉を語っておられると」とありますが、「御言葉」と訳されているのはロゴス(言葉、話、説明、提案、説教)という言葉です。これに「τον」という定冠詞がついています。英語でいえば「the word」「あの言葉」です。あの言葉というのは、皆が知っていて、それを聞けば「ああ、あれか」と思うような言葉です。ですからここでイエスが人々に語っていた「御言葉」というのは、「いつも語っておられる、あの言葉」という意味です。この日も大勢の人が集まってきていたというのですが、彼らは前にも聞いたあの話をまた聞きたい、聞くと心がワクワクしてくる「あの言葉、あの話」を聞きたいと集まってきていた、それが今日の場面だと言えます。こどもが同じ絵本を繰り返し読んでもらって、その度に心をワクワクさせる、それと同じ感覚です。

◆ ヘルムート・ティーリケというドイツの神学者が「聖書は神の絵本だ」と言っています。聖書は神の働き、神の思い、神はこの世にそして人間にどう関わるのか、それを文字という絵具を使って描き、物語る絵本だというのです。ですから聖書は絵本を読むときの感覚・感性で読むとき、生き生きと立ち上がって、息づき、その奥深さが広がるのだというのです。絵本を読むように聖書を読む、それは聖書の物語を「本当か嘘か」という尺度で読まないということです。あるいは「科学的に証明できるとかできないとか」という尺度で読まないということです。そのような尺度で読んでも聖書は息づかないのです。絵本を読むとき「この話は本当か嘘か」という読み方を私たちはしません。絵本の読み方ではないからです。聖書も絵本を読むように、物語を読むという感覚で読んでみると、豊かな世界として息づき、私たちのもとにやってきてくれます。

◆ さて今日の物語の舞台はカファルナウムです。この日も、ある家にイエスが在宅していることを知って、大勢の人々が押し寄せてきました。そこに、突然、物音が起こり、家の天井の壁土がぼろぼろ落ち始め、人ひとり通り抜けられる程の穴が開きました。4人の男たちの顔が見え、病人を乗せた床が吊り下ろされてきました。この人をなんとか治したい、その強い思いが彼らを、常軌を逸した行動に駆り立てました。他人の家の屋根に大きな穴を開けて、病人の寝ている床を吊りおろす。それはいくらなんでも非常識極まりない行動です。人々は驚き、ざわめき立ちます。その時でした。イエスがさらに人々を驚かせることを語ります。「子よ、あなたの罪は赦される。」しかも赦される理由は、本人ではなく、病人をつり下ろした人たちの信仰を見たからだというのです。病気の本人のことは何も取り上げられてはいないのです。正直戸惑ってしまいます。イエスはいったい何を考えておられるのかと考え込まされます。イエスがこの場で語ったことは、その場にいた人々に、そして今を生きる私たちに、信仰をもつことの意味を根底から受け取りなおすことを促すのです。

◆ 信仰をもつと私たちは言います。では何のために、何を求めて信仰を持つのですかと問われたらどのような答えが思い浮かぶでしょうか。救い、生きる意味、癒し、慰め、励まし、支え、希望、いろいろなキーワードが思い浮かんできます。そしてそのいずれにも「私の」という言葉がついてはいないでしょうか。信仰を持つのは、私が救われるため、私の生きる意味を見いだすため、私が癒されるため、私が慰められ、私が励まされ、支えられ、希望が与えられるためなどなどひたすら「私」にこだわり続けます。信仰をもつというとき、思い浮かぶのはひたすらに自分の姿、生き方であり、それがいかに整えられているか、キリスト者としてふさわしいと思えるかどうかということです。

◆ けれども今日の箇所では、他者の信仰がある人に救いをもたらすということが語られています。イエスは中風の人を癒しました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床をかついで家に帰りなさい」とイエスが言うと、中風の人は起きあがり、すぐに床をかついで、皆の見ている前を出て行ったというのです。しかしこの癒しは癒された本人の信仰の故にというのではありません。本人の信仰は一切問われていません。この中風の人のために彼をイエスのもとに運んできた4人の人たちの信仰が、この人に癒しと救いをもたらすきっかけとなったと書いてあります。信仰を持つことは、その人の家族や友人、つながりを持っている人に救いをもたらすことなのだというのです。神は他者の信仰を私の救いの担保にしてくださるということです。これは「とりなしの信仰」ということです。

◆ このことはイエスの十字架の出来事の意味を明らかにします。イエスが全てを神に託すという徹底した信頼、信仰が私たちを救ったということです。その際、私の信仰が足りないとか、不十分であるとか、こんな私でいいのかといった私たちの側の条件は問われることはありませんでした。問われなかったというよりも、イエスはわたしたちのすべてをひたすら神にゆだねたのです。中風の人を四人の人たちがひたすら懸命に、他人の家の屋根に穴をあけてまでイエスのもとに運び、イエスに託したように、イエスはひたすら私たちを神のもとに運び、神に託したのです。それが十字架の出来事に宿された真理であり、深い意味なのだと思うのです。

◆ 今日の箇所では、もうひとつ気になることがおありだと思います。イエスが律法学者に向かって問いかけたことです。イエスは中風の人に「あなたの罪は赦される」と語りました。それを聞いていた数人の律法学者が心で呟きました。「この人は、神を冒涜している。神のほかにだれが、罪を赦すことができるのか」。それに対してイエスは問いかけました。目の前に中風の人がいる、その人に「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて床を担いで歩け」というのと、どちらが易しいとあなたがたは思うのか、と問いかけた、これが気になります。いったいどちらが易しいというのでしょうか。「神のほかに罪を赦すことはできない」という律法学者の言い分は正しいのです。間違っていないのです。では何が問題なのかといえば、神さまにしかできないことがここで起こっている。神はイエスを通して働いておられる。それなのに神が働いておられることを彼らは認めない。イエスの言葉を神への冒涜だと非難する。だからイエスは神が働いておられることを具体的に見せるのです。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」すると中風の人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行きました。人は信じるということにおいて、自分に納得できる具体的なしるし求めます。イエスにおいて神は生きて働いておられる、そのしるしに納得できない人たちがいました。おそらくそれは律法学者だけではなかったはずです。

◆ その人たちを切り捨てるのではなく、寄り添うために「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と語り、見えるしるしを差し出されたのだと思うのです。イエスはどちらが易しいかと比較したかったのではないと思います。神は働いておられる、そのことに深く気づいてほしいと願い、そのしるしがここにもあることを敢えて示したのだと思うのです。

2022年3月6日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年3月6日(日)午前10時30分
復活前第6主日・受難節第1主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「キリストにおいて一つ」
      同志社女子中高教諭 平松譲二
聖 書:ガラテヤの信徒への手紙3章26〜29節
招 詞:ヨハネによる福音書4章24節
讃美歌:6(1・3節),171(1・4節),413(1・5節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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