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2014年9月28日の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2014.9.28  コリントの信徒への手紙Ⅱ9:6-15 「持ちものが息づく道」           

◆ 私が初めて教会に出かけ、礼拝に出席したのは中学に入学した春のことでした。初めから終わりまで、全く訳が分かりませんでした。讃美歌と呼ばれる歌を唱うたびに立ったり座ったりする。聖書という訳の分からない本を読み、また何を言っているのか理解できない牧師の話を聞く、今振り返れば失礼な話ですが、それがわたしの教会との出会いでした。そもそも自分の意志で礼拝に出席したわけではありません。母に半ば強制的に行かされた礼拝でした。ですから日曜日の午前中、せっかくの休みの日の時間を取られるそのことだけが頭を巡っていました。そしてもうひとつ、何と理不尽なことかと思ったことがあります。献金です。牧師の話が終わるとまた立って讃美歌を歌う。そのあとです。礼拝に感謝して献金をささげましょうと言われて、人が籠を持って回ってくるではありませんか。感謝などみじんも感じていないのに、お金を出さなければならない。その時の献金は、私にとって、なけなしの小遣いを取られるという体験以外の何ものでもありませんでした。「礼拝で献金をするとお小遣いをとられるような気がする」と思ったことがあるのは、私だけではないはずです。

◆ 毎週の教会の礼拝で、私たちは献金を捧げます。献金の歴史は初代教会の時点まで遡ります。当時教会の礼拝では、集まった人たちが捧げものをしました。礼拝での献げものは神の招き、呼びかけに対する応答であり、信仰的な行為だと考えられたからです。信徒はパンやぶどう酒、その他の食べ物などを持ち寄って、神にささげ、その一部を取り分けて聖餐を守り、共に食事をしました。残ったものは、その席に集まることのできなかった人々や、困窮している人たち、獄に捕らえられている人たちなどに届けました。人々は自分の労働によって得られた実りを持ち寄って献げ、それを分かち合うことによって神との交わり、自分たち同士の交わりを祝いました。それが聖餐です。したがって、礼拝での捧げものは、本来、聖餐の一部であり、その準備の部分を構成していたのです。この献げものが「献金」、すなわちお金を捧げるという形で行われることが常のこととなるのは、16世紀の宗教改革以降、貨幣経済の時代になってからです。

◆ コリントの信徒への手紙も、そのような時代にパウロによって書かれた手紙の一つです。そして8章と9章においてパウロは献金について語っています。8章ではとくに、献金を「慈善の業」とか「恵み」「奉仕」「愛の証し」などと言い換えながら、献金することの意味を説明しながら、献金は金額ではなくて心のありようだと説きます。そのことを9:5で「渋りながらではなく、惜しまず」という心構えとして説いています。「渋りながら」というのは「けちな心をもって」というのが元来の意味です。ケチりながらの献金など、受ける側としては面白くありません。相手のことを思って献げられたものであれば、受け取る側も恵みとして喜んで受けることができます。

◆ さて献金は捧げものですが、捧げるだけの一方通行ではなく、報いもあることを6節以下で述べています。種蒔きと収穫のことを例に挙げながら、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決め通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです」という献金についての認識をパウロは示します。ラテン語には「早く出した者は二倍出したと同じ」ということわざがあります。日本には昔から他人の懐を気にして周りの人の様子を見ながら献金する習慣があります。現代でも援助するときに日本がいつも他国の様子を見てから援助を決めるものですから、援助額が大きい割に批判される、あるいは感謝されないことがしばしばおこっています。7節の言葉ではありませんが「不承不承」の献金は出し遅れとなってしまいがちです。パウロは8:2でマケドニアの教会の人たちの献金について、「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」ことを、献金を献げる者の手本としつつ、コリントの教会の人たちに献金の用意をちゃんとしておいてほしいと要請をしています。そしてそのために選ばれた人たちを一足先に派遣するから「以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だ」(5節)と書き送ります。ここでも「お金」とは直接書かずに、「贈り物を」と書いている所に、パウロの心配りが感じられます。    

◆ 献金のことを、「奉仕の働き」(9:12)、「奉仕の業」(9:13)とパウロは表現しています。奉仕(レイトルギア)は本来「祭り」「礼拝」を意味していましたから、パウロは献金という行為が神の礼拝にあずかることと同じだと見ていたことが分かります。そして13節ですが、「惜しまず施しを分けてくれること」と「神をほめたたえること」が一致することをコリントの教会の人たちに訴えました。一口に献金と言いますけれども、それは例えば貧しい人、支援を必要としているところを援助するということだけではなく、神から与えられている恵みや支えに対するお返し、という意味が込められていました。

◆ 献金をするときに思い起こさなければならないことがあります。まず第一に「すべては主のもの」ということです。人は皆、神の恵みによって「生かされて生きている」存在なのだというのが聖書の語ることです。それを詩編の詩人は「あなたは、わたしの内蔵を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」(139:13)とうたいました。第二には、「すべてが主(神)のもの」である以上、献金とは、私たちが自分のものを神にプレゼントするというような行為ではないということです。そうではなくて「返還すること」「神のものを神に返すこと」「本来の所有者に引き渡すこと」です。人はしばしば次のように言います。「私のものは私のもの」「私のものを私が好きなように使ってどこが悪い」と当然のごとく口にします。しかしこれは本末転倒なのだというのが聖書の示すことです。

◆ 献金という献げものをすることにおいてキリスト者が想い起こすべきもう一つの大切なことは、神の恵みとして私たちに与えられている最も大きな贈り物はイエス・キリストだということです。そのことを8:9でパウロはこう記しています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

◆ パウロによれば、人は「主の豊かさ」を与えられて「豊かになり」、その分「主は貧しくなった」のです。そしてパウロはこの前後の文脈で、コリントの教会の人々に貧しい人々を援助するための募金に協力してほしいと呼びかけています。献金を捧げるとは、キリストから与えられた「豊かさ」を感謝し、その「豊かさ」を返還することであり、またその「豊かさ」を隣人と共に分かち合うことです。したがって献金を捧げるということは、単にお金をささげるということではなく、イエス・キリストの生き方を想い起こし、キリストに従う者として生きる決意を新たにすることであり、自分自身を献げることです。
 献金の時に「この献げものを主の御用のためにお使い下さい」という意味のことが祈られますが、用いられるのはお金だけの意味ではありません。私たち自身が「主の御用」神の働きに用いられて1週間を歩むことができるようにという祈りです。

◆ 毎週のこどもの教会の礼拝で、みんなで祈る献金の祈りは、献金をする時に思い起こすべきことがすべて表現されています。「神さま すべてのものは、あなたからいただいたものです。 このからだもお金もあなたのものです。 いま、わたしたちのからだをおささげします。 そのしるしに、けんきんをささげました。 この一週間も、神さまにしたがって生きますから、みこころのままに 導いて下さい。イエスさまのみ名によっておいのりいたします。アーメン」・・・・献金は礼金でもお賽銭でもありません。また会費やカンパでもありません。私たち自身が神の働きに用いられるようにという献身のしるしであり、祈りなのです。


2014年10月12(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2014年10月12日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第19主日 神学校日
説 教:「希望の福音」
清水理沙神学生
聖 書:コロサイの信徒への手紙
1章21-29節(新約p.369)
招 詞:マルコによる福音書14章32-34節
讃美歌:27、57、390、458、91(1番)
交読詩編:43(p.47下段)

※礼拝は、同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

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