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2018年7月29日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.7.29 ヘブライ人への手紙12:3-13 「二人の父」      望月修治       

◆ 紀元80年代から90年代にかけての頃、キリスト教への激しい迫害が嵐のように襲ってきていたローマの教会ではないかと考えられるのです。ローマの信徒への手紙に続いてヘブライ人への手紙もまた送られて、ローマの諸教会で読まれたのです。1世紀末、ローマの教会にはユダヤ人キリスト者、ヘブライ人キリスト者たちが数多く集っていました。強大なローマ帝国の片隅でもキリスト教会は産声をあげました。キリスト教はローマの宗教や風習をくつがえしました。復活のイエスを信じ、皇帝崇拝を否定したのです。ですからローマ政府は、帝国の秩序を乱す教会に対し迫害を始めます。迫害は4世紀の初めまで続きました。教会の人たちは希望を見失い、信仰を放棄し、教会を離れていくという危機に直面して行くのです。

◆ 危機に直面していた教会に宛てて書かれた手紙ですから、かなり厳しい物言いも重ねてなされています。例えば6章4節以下ですが、こう記されています。「一度光りに照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」 いったん福音を受け入れ、イエスをキリスト、救い主だと信じたのに、その信仰を捨て去るようなことになったなら、それはイエスをもう一度、自分の手で十字架にかけるのと同じことであって、再び神のもとに立ち帰ることはできないというのです。12章4節には、さらに追い打ちをかけるような言葉が記されています。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」 このような言い方をされると心が暗くなります。信仰というのはそんなに厳しいことなのかと思ってしまいます。当時、この手紙を読んだ人たちも同じだったはずです。いや、わたしたちが想う比ではないかったと思います。

◆ そのような言葉をなぜ書き込んだのか。この手紙が書かれた時には、すでにイエスの死後50年〜60年はたっていて、信者たちも、キリスト教の第二世代、第三世代に移っていました。3節に「気力を失い疲れ果ててしまわないように」とありますが、世代が移ってキリスト者の二世、三世の時代になって、第一世代の緊張感、教会を立ち上げ、整えて行こうとするエネルギーは後退し、喪失感のようなものが広がっていたことを伺わせます。喪失感から人を引き戻すためにこの手紙は、イエスが十字架で味わった尋常ではないきつさを思い起こすことを促そうとしたのではないかと思います。イエスは十字架の上で叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」この叫びは人に向かってではなく、神に向かって発せられました。神は最後の拠り所です。そこに見放されたらもう行き場がない、救いがない、帰る場所がない、戻る場所がない、そういう最後の拠り所です。その神に向かって「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶしかなかった。これはきつさの極限です。

◆ なぜイエスはそのようなきつさの極みを味わわなければならなかったのか。そのことについて12章の2-3節にこう記されています。「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」イエスが十字架の死を耐え忍んだのは「あなたがたが気力を失い疲れ果ててしまわない」ためだと言います。神の前に立つ人の状況は様々です。それがどのような状況であっても、その人に生きることへの、命への気力を失わせないために寄り添う、それが神の選択であり、イエスの覚悟でした。その選択と覚悟の重さを、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの叫びが示していると思うのです。

◆ そのことを受け止めることを、今日の箇所では「鍛錬」あるいは「鍛える」という言葉で繰り返し語ります。「主の鍛錬を軽んじてはいけない」「主は愛する者を鍛える」「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい」「父から鍛えられない子があるでしょうか」「もし誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば」「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく」と鍛錬という言葉が重ねて語られています。ユダヤの家庭で父親が子供を鍛錬する、誰もが体験してきた体験を、もう一人の父、神の働きに重ね合わせて語っています。教会の内外で信仰をもって生きることが圧迫を受けて、キリスト者たちが覚えている揺らぎや不安を、神の無力のしるしと受け取るのではなく、それは主の鍛錬、人々が神の思いに深く気づくことができるように神が備えた機会なのだと語っています。

◆ では、現代に生きる私たちにとって、ヘブライ人への手紙にしるされた「主の鍛錬を受ける」とはどういうことなのでしょうか。どう生きることなのでしょうか。 
2011年9月11日に岩手県久慈市でNHKのど自慢の地方予選が開催されました。東日本大震災からちょうど半年後のことです。この予選の参加者は被災の痛みや悲しみの中で、それぞれ特別な思いを抱いて歌を歌われたのだと思います。清水良成さんもその一人でした。高校時代からの親友で同じ漁師仲間であった友を津波で失いました。心が空虚になっていたある日、たまたま運転していた車のラジオから聞こえて来た曲がありました。沖縄のグループBIGINが歌う「涙そうそう」です。
「古いアルバムめくり/ありがとうってつぶやいた/いつもいつも胸の中、励ましてくれる人よ/晴れ渡る日も、雨の日も/浮かぶあの笑顔/想い出遠くあせても/おもかげ探して/よみがえる日は 涙そうそう/さみしくて恋しくて/君への想い 涙そうそう/会いたくて会いたくて/君への想い 涙そうそう」
 この歌詞は親友を失った清水さんの心にしみ込みました。「このままでは、静かに忘れられて行きそうだ」そう想い、亡くなった友のことを想って、忘れてくれるなという想いを込めて歌おうと、のど自慢に応募しました。人前で歌うなど考えられない自分だったが、亡くなった友のことを思ったとき、なぜか歌おうと気持ちが動いた。「涙そうそう」を歌いました。結果、鐘は鳴らなりませんでしたけれど、友の死を心に刻んで歩み出そうと思った。埋めることのできない喪失感の中で、友の死に向き合う清水さんの姿には、命のかけがえのなさを想う、心の思いの深さが宿っていました。

◆ イエスが十字架にかけられて亡くなった。その喪失感の中で、人々が気づいたことがありました。パウロはそれを「生きるにしても、死ぬにしても、わたしは主のもの」であり、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるため」だという表現で語りました。私たちが味わうさまざまな体験、それを人は色分けして、よいこと悪いこと、益になること無益なこと、意味のあること無駄なこと、と価値判断を下し、人の生き方を評価するというだけでなく、自分への評価も下し、ときには自分を裁いてしまうこともあります。けれどそのすべての出来事、すべての体験は主のものだとパウロは語ります。そしてキリストが死に、そして生きたのは、そのいずれの状態にいる時も、その人の主、救い主となられるためでした。

◆ イエスは、わたしたちの悲しみの中心に立つ。それはわたしたちの悲しみを内側にではなく、神に向けることを促すためです。そのことをヘブライ人への手紙は伝えたかったのではないかと思いました。そのことを忘れない、思い起こし、折りに触れて心に刻み直して生きる、それを神は願っておられるのであり、それが現代に生きる私たちにとっての「主の鍛錬を受ける」ことの中身なのだとも思いました。

2018年8月12日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年8月12日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第13主日
説 教:「生き方のパラダイム転換」
牧師 望月修治
聖 書:エフェソの信徒への手紙
4章17〜32節
招 詞:マルコによる福音書10章51〜52節
交読詩編:8
讃美歌:26,56,472,514,91(1番)

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