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2017年7月30日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.7.30  ローマの信徒への手紙9:19-28 「その器の窯元」    望月修治    
  
◆ 二千年前に誕生した教会には早くも厄介な問題が起っていました。パウロはそのことに思いを巡らせ、小アジアやヨーロッパに設立されていた教会宛に、解決の処方箋を手紙に綴り、書き送りました。コリントやテサロニケ、あるいはフィリピやエフェソの教会で具体的にどんな問題が起こっていたのか正確には分かりませんので、ただ手紙の文面から推測するしかありません。それは喩えて言えば、電話で話している人の横に立って、聞こえてくる会話を理解するようなものです。電話の相手の言葉は分かりませんから、そばで話している人の言葉だけを頼りに、二人の会話の内容全体を想像するしかありません。聖書に収められている手紙を読む場合、そのような理解上の問題点を抱えながら、ということになります。しかし手紙の文面から、人間の罪、すなわち神の思いから外れて生きてしまう現実と、しかしそれを乗り越えようとする初代教会の信徒の人たちの姿が伝わってくるのです。

◆ 本日の聖書日課はローマの信徒への手紙です。16章からなる長い手紙です。決して分かりやすい手紙とは言えないのですが、宗教改革をはじめとするキリスト教の多くの改革運動が、この手紙を読み直すことで始まりました。そのように後の時代に大きな影響を与えたという意味でも、ローマの信徒への手紙はパウロの主著とも言うべき手紙です。彼はこの手紙を紀元55年あるは56年頃、コリントで執筆し発信したと考えられています。ローマの教会は新約聖書に出てくる他の異邦人教会とは異なり、パウロが伝道旅行を通して関わり、設立された教会ではありません。この手紙を執筆していた頃、彼はローマを訪問し、さらにヨーロッパの西へ、スペインでの宣教活動を行うべく計画していました。それに先立って、自己紹介の意味も込めて、ローマのキリスト者たちにこの手紙を送りました。

◆ ローマの信徒への手紙は、パウロの思想、信仰理解をまとまった形で伝える文面になっています。その骨格を次のように語っています。3:23-24です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」まことに硬い表現で分かりづらいのですが、「義とされる」という言葉は、もともと法廷で無罪の宣告を受けるという意味です。人間は神に対して償いきれない罪、破れを持っていて、神によって無罪を宣告されない限り、決して赦されることはない。しかしながらそれを執り成すためにイエスは十字架にかかり、その命が捧げられた。そのことによって人は無償で、見返りを要求されることなく赦されているのだというのです。このことがローマの信徒に宛ててパウロが書いた手紙の1番の骨格です。

◆ しかしパウロの心を暗くしている問題がありました。一つは、神から選ばれたはずのユダヤ人が、神から遣わされたイエスを救い主として受け入れないで十字架にかけた、ということです。もう一つは、異邦人にイエスの福音を宣べ伝えるために召し出されたパウロの働きを、彼の行く先々で妨げるという問題です。パウロは同胞であるユダヤ人のことを深く思うがゆえに、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(9:2)と書いています。そして同胞であるユダヤ人が神のもとに立ち返るためなら、自分が「キリストから離され、神に見捨てられた者となってもよい」(9:3)とさえ思ったというのです。異邦人にイエスの福音を伝えることに自分の使命があるとして生涯を捧げたパウロですが、それ以上に彼は、イエスの福音を受け入れようとしないユダヤ人たちの頑固さに心を痛めていました。

◆ それは同胞であるユダヤ人への心情的な思いもあったでしょうが、もっと根本的な問題がそこにはあって、そのことをパウロは繰り返し問い続けていたからです。もしこのままユダヤ人がイエスを救い主として受け入れなかったら、それが理由で神から見放されることになるのではないか。そうなったら神が自分の民としてイスラエルを選び、あなたたちを救い導くと宣言された約束は取り消されることになるのか。約束されたことは、どんなことでも必ず実現されるはずの神が、約束を反故にするようなことがあるのか。パウロにとってこれはどうしても問わざるを得ないこの問題でした。パウロは9章から11章までにかけてそのことを取り上げているのです。そしておそらく、他の人からもこのままではどうなるというのかと問われたのだろうと思うのです。この問いかけられたことにどう答えるのか。そのための手がかりとして、パウロは旧約聖書の創世記や出エジプト記に記されている出来事を具体的な事例として挙げて、18節で「神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」のだと述べています。

◆ しかしこのような答え方に対しては当然反発が起こったはずです。それが19節です。“ところであなたがたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。誰が神の御心に逆らうことが出来ようか」と。”この反論が意味するのはこういうことです。「神は自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにする」というのであれば、神が一切をあらかじめ決めているということであるから、人間がかたくなであってもそれは神がそのようにしたのであり、その人の責任を追求することなどできないはずではないか、という疑問です。もっともな言い分です。

◆ これに対してパウロは焼き物師と陶器の関係を具体例として挙げます。陶器の材料となる粘土が、それをこねて陶器を作る焼き物師に向かって、どうして私をこんなふうに作ったのかと文句を言うことが出来ないように、人は造り主である神に向かって、あなたはどうして私をこんなふうに作られたのですかとは言えないというのがパウロの言い分です。陶器は、茶碗や皿やカップなど、私たちの毎日の生活に欠かせないものです。しかしどんな陶器も、壊れやすいという性質を持っています。それゆえ土の器は古代から脆弱さの象徴ともされてきました。パウロは人間をその土の器に譬えているわけですが、それは、人間という存在の弱さやもろさを自覚させるためであると共に、器は何かを容れるために作られ、存在していることを示すためでもあります。器が生きるのは、何を容れるかによっています。器の色や形や大きさを人は評価の基準とするのですが、本来、器は飾っておくものとして作られたのではなく、水や食べ物を容れて用いるために作られたものです。パウロはコリント信徒への手紙Ⅱ4:7で次のように述べています。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」このような宝とは、イエス・キリストにおいて示された神の働きの大きさ、豊かさを指しています。理不尽さを訴える人に対して、パウロは土の器に神の力を容れるという生き方を示すのです。

◆ 世界は、今、テロとそのテロに対する報復の連鎖の中で苦しんでいます。どんな武力も、そして優れた知恵や政策も、この憎悪と復讐の連鎖を止めることは出来ません。世界は今も混沌の中に置かれています。しかし、この憎悪と暴力の連鎖を断ち切って、「愛と赦しの平和」を建設する使命が、この無力な私たちに託されています。理不尽さの中で、しかし諦めないで、絶望しないで、自分には身に覚えのない、責任のないあのことこのことを引き受け、受け容れていくことに思いを向けてみないかと促されます。神が土の器としての私たちに何を容れて下さったかを思い起こすことを促されます。神は私たちのために何をして下さったか。それは神の側が私たちのために変わるということです。神の側が私たちのためにひとり子を差し出すという、そういう変わり方を神の側がして下さったということです。土の器に神の力を容れる、それは神がイエスを通して示した生き方を私たちが自分の生き方にすべく受け止めていくことです。そこに私たちが生かし直される原点があるのです。

2017年8月13日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年8月13日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第11主日
説 教:「使徒の道への同伴者」
牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録9章26-31節
招 詞:マタイによる福音書9章35-36節
交読詩編 :71;14-19
讃美歌:27、425、534、564、91(1番)

※礼拝場所:静和館4階ホール

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