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2015年12月27日(日)の説教概要 [説教要旨]

説教要旨2015.12.27 マタイによる福音書2:1-12「人の道・神の道」 望月修治        

◆ マタイによる福音書の語られているイエスの誕生物語には、救い主の誕生を祝うために、はるばる東方から旅をしてきた占星術の学者たちの物語が記されています。この物語の中で、興味を引かれるのは、彼らが「自分たちはいったいどこの誰にこの贈り物を献げるのか」、最後の最後になるまで分からないでいたということです。ユダヤの都エルサレムにやって来た彼らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と問うていますから、自分たちはどこへ行くのかということもはっきりとは分からないまま、はるばるやってきたということになります。贈り物をしようというのに、誰に贈るのか分からない。人に出会うために旅に出たのに、自分の目指している相手がどこの誰なのかも分からないというのです。福音書記者のマタイは「東方の学者たち」を、誰に会うのかも分からないのに、贈り物をもって、見通しのない旅に出た人たちとして描いています。

◆ 年末年始には海外、国内を問わず多くの人たちが旅に出かけます。旅に出るときには目的地や日程を決めているのが普通です。しかしながらさまざまな旅の中で「人生の旅」と呼ばれる旅路は、目的地や日程が実は決まっていないのです。私たちは目的や見通しや計画を立てた上でこの世に生まれてきたわけではありません。「気がついてみたら生まれていた」のです。「気がついてみたら人生という旅に出ていた」のです。この人生という名の旅路はその日程ひとつを考えみても、私たちの思い通りにはいきません。今歩んでいる自分の人生はいつ終わるのか、10年後なのか20年後なのか50年後なのかそれとも明日なのか、それすら私たちには分かりません。人生の旅は思いもよらぬうちに始まった旅であり、そしておそらく思いもよらない時に終わる旅なのです。

◆ 「東方の学者たち」の旅はそのような旅であったのですが、しかし明確に分かることがあります。学者たちがこの旅に込めた願いです。彼らは「黄金、乳香、没薬」を携え、それらを献げるために旅に出ました。一説によれば、黄金、乳香、没薬というのは占星術を仕事とする学者たちの商売道具だったというのです。そうであるなら、彼らが救い主に贈り物をしたのは、今までの自分たちの生活の糧を得るもとになっていたものであり、彼らのこれまでの「人生の旅」を支えてきたいちばん大事なものであったということになります。ですから学者たちが「黄金、乳香、没薬」を献げたということは、彼らのそれまでの生き方をイエス・キリストの前に献げたということであり、さらにいえば、彼らの過去の生き方を精算しようとした、新しく生き直そうと願ったということを表していると読むことが出来るのです。彼らの旅は「これまでの自分の生き方を終える旅」であり「これからのあたらしい生き方を始めるための旅」だったのです。

◆ そこで思いを巡らされるのは、学者たちにこの転換をもたらした出来事です。「東方で星を見たので」というのが長旅の理由です。彼らが生業としていた古代の占星術は厳然として動かないように見える北極星を中心に成り立っていました。ところが星が動き出したとマタイは語るのです。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」(9節)というのです。占星術の常識が覆り、動かないはずの星が動いた。そこで占星術の学者たちは気づかされるのです。星が世界のすべてを定めているのではなく、この動かないはずの星を動かす方がいるということです。星は規則正しく運命を語るかのように動くのではなく、予期せぬ方向へ、人間の思いや経験を超えて動き出す、その発見が学者たちを旅立たせたのです。そこに福音書記者のマタイはクリスマスの意味を語ろうとしています。

◆ エルサレムにやって来た学者たちはこう尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 当時のオリエント世界でペルシアは先進国です。その国から、世界の周辺と見なされていたユダヤに王が生まれたというので拝みに来たというのです。これは占星術の学者たちに起こった方向転換、それまでの生き方、世界観を捨てて、新しい生きかた、新しい人生をはじめたことを示します。

◆ クリスマスの物語が告げるのは、捨てるという経験であり、献げるという経験だと言えるかもしれません。占星術の学者たちが「宝の箱を開けて、献げた」という、それは彼らが大切にして来たもの、生きる基盤とし支えともしてきたものを差し出したということです。ましてそれが彼らの商売道具であったとすれば、彼らの生きることの基準を、まったく変えてしまったということを意味します。救い主の誕生の物語は、観客席で演劇を鑑賞するようにながめて感激できるような出来事とは明らかに異なっています。神が起こした救い主の誕生という出来事は経験することを私たちに求めるのです。占星術の学者たちは、この出来事に参与するために立ち上がり、旅に出ました。二千キロを超える旅、それは危険な旅です。決して楽な、また短期間の、日常の疲れを癒すような旅ではありません。占星術の学者たちは危険を承知で旅に出たのです。

◆ マタイによる福音書が記したイエスの誕生物語に登場するのは二つのタイプの人々です。ひとつは占星術の学者たちのように、救い主の誕生の出来事と向き合い、受け入れ、自らのこれまでの生き方を捨てて、新しい生き方を得ていく人たちです。もうひとつは、これまでの生き方にこだわり、自分を守りたいがゆえに、新しくなることを拒否する人たちです。その代表がヘロデです。彼は失うことを拒むが故に不安になります。しかしそれはヘロデだけではありません。圧倒的多数の「エルサレムの人々」も同様です。3節に「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と記されている通りです。彼らもまた変わりたくなかった人たちです。

◆ ヘロデも、エルサレムの人々も、彼らが願ったことは、クリスマスの出来事があたかもなかったかのように生きることでした。ヘロデはそのために占星術の学者たちに、クリスマスの出来事を調べさせ、その上でこの出来事に関わる全てを消し去るために、二歳以下の男の子をすべて抹殺するように命じました。エルサレムの人々も占星術の学者たちのようには生きない。あたかも何事もなかったかのように生きようとしたのです。救い主の話も、輝く星も、すべてなかったかのように生きているのです。それが上手な生き方だと考えたからです。

◆ 占星術の学者たちはクリスマスのあと、何をすべきかを示します。彼らは救い主の誕生を祝ったあと、自分の国へ、自分の生活の場へと帰って行きます。救い主に出会ったら、そのあとには楽園が用意されているのだろうか。そうではありません。学者たちは「帰って行った」のです。自分たちが今まで生きて来た場所に帰るのです。ただし来た時とは「別の道」を通って自分たちの国に帰って行きました。自分たちの国に帰ったとき彼らを待っているのは、旅に出るまでと同じ世界です。しかしそれを受けとめる見方、視点を変えられて彼らはそこに帰って行くのです。「救われる」というのは、生きることへの視点を新たにされて、自分が生活している場所、生きている場所にもう一度立ち直すことです。視点を新しくして、視点を変えられて、今生きている場で生き直す、そのことの促しをマタイは東の国からやってきた占星術の学者たちの物語によって私たちに語りかけています。

2016年1月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年1月10日(日)午前10時30分
降誕節第3主日
説 教:「誰が差し出したのか」
         牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書1章29~34節
招 詞:イザヤ書42章1~3節
讃美歌:26、120、394、358、91(1番)
交読詩編:36;6-10

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