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2019年9月29日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2019.9.29    コロサイの信徒への手紙 3:12-17       「最高の道」(髙田)               

◆ 本日の箇所で勧められているのは、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」ることであり、「互いに忍び合い」「赦し合」って生きることである。それらを束ねる形で愛を身に着けよと言われている。これには前提があった。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されて」おり、「主が赦して下さった」ということである。まず神の選びがあり、愛があり、赦しがある。

◆ 次に来るのは平和である。「キリストの平和が心を支配するように」。これにもこの勧告を聞くものが「招かれて一つの体とされた」、教会とされたという前提があった。神の招きがあって一つにされているという現実がある。その恵みが先立っていて、「キリストの平和」が与えられている。そうであれば教会に連なるものは、その平和に与り心を平和で満たすこともできる。そして、愛を身に着け、平和に与るものから溢れ出してくるのが、感謝である。

◆ 愛、平和、感謝、これらの事柄はキリスト教信仰の本質に属するものであろう。聖書、特に新約聖書においては、さまざまな箇所がこれに響き合って一つの事柄を示そうとしている。例えば、マタイ福音書5章。あるいは、新島襄の愛したヨハネ福音書3章16節。まず神の愛があり、それが永遠の命を与える。永遠の命の確信はすべての恐れを退けて、平和をもたらす。最後に、パウロの第一コリント書13章が挙げるべきだろう。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。‥‥不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」。ここでは愛そのものについて語られているが、印象的なのは愛が最高の道として示されていることである。

◆ そうすると問題は、最高の道でありすべてを完成させるきずなである愛とは何か、ということである。これを考えるに当たって、もう一つ、補助線となる聖句を挙げたい。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7.12)。この言葉の意味をよく理解するためには、その反対を考えてみればよい。「人にしてもらいたくないと思うことは、人にするな」となったらどうだろうか。肯定の形が愛を表すならば、こちらが表すのは尊敬である。誰かに尊敬をもって接するならば、自分のしてもらいたくないことは、人にしないということになる。殺すな、盗むな、姦淫するななど、律法の事柄はここから出てくる。倫理学の用語を用いればこれらは完全義務で、しなくて当たり前のことである。対して、愛は倫理学においては不完全義務と言われる。こちらはしなくてもよいが、すると褒められる行いである。それをしないからといって責められるわけでもない。

◆ さて、このしないからといって責められるわけでもない愛の行為を、「あなたがたも人にしなさい」と言っているところにイエスの言葉の特徴がある。しかし、これには完全義務である尊敬が先行せねばならない。ところが、愛とか親切が大事だと思っている人が、この尊敬の方を忘れてしまうことがある。「人にしてもらいたいことを人にする」と言って、わたしはこうしてもらったら嬉しい、だからあなたにもしてあげますと、人を見下すような形になってしまったら、そこでは尊敬が忘れられている。そういう愛や親切は押し付けであり、自己満足である。

◆ 本当に「人にしてもらいたいことは何か」を考えるならば、そういう自己満足や価値観の押し付けではない、爽やかに受け取ることのできる愛を与えてもらいたい、ということになる。そしてそうであるなら、今度はその「人にしてもらいたいこと」をするためには、その相手が本当に何をしてもらいたいと思っているのかを考えなくてはならない。それはまた、時と場所、その相手の固有性を十分に認識した上で、知識と技術に基づいてなされるのでなくてはならない。

◆ 愛の行いとはなんと難しいものかと思わされる。しかし、その上で、イエスの言葉は「人にしなさい」と人を愛の行いへと駆り立てている。そうするとわたしたちは問い続けねばならない。自分が本当に何をしてもらいたいのか。また相手は本当に何をしてもらいたがっているのか。この問いの道に終わりはない。それでも問いから行いに踏み出してみれば、時に失敗を経験することもあろう。そうすると今度は、その失敗を反省して、愛のために、知識を増やしたり、技術を身につけたりせねばならないということになる。イエスの言葉に駆り立てられる限りにおいて、この歩みは終わることがない。

◆ では、そんな無限の問いの道に、愛の道にどうしたら立つことができるのか。すでに答えは与えられていた。神がわたしたちを愛して下さったからである。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4.10)。この十字架の愛は、先に見てきたような難しい愛の要件をすべて満たしている。神は、ただ自らの人への愛を示すために人となり、愛を説き、その愛から生じる自己満足の主体となるはずの自らを十字架で殺された。さらに、その愛を受け取るかどうかについても、人にそれを押しつけるのではなく、人への尊敬を保ちつつ、これを受け取る自由を与えておられる。神はそんなふうに、罪ある人間とその世界とをそのままで肯定して受け入れ、これに身を委ねられることでその真の愛を示されたのである。

◆ この地点、十字架という罪と死と恐れの極地から、しかしまったく新しい愛の道が始まっている。その愛の道は終わりのない問いの道であるが、それこそが永遠の命の道なのである。そうであれば、「あなたがたも人にしなさい」というイエスの言葉を、そうして自ら愛を示された神の言葉として聞くことができ、そこから始まる愛の道に立つことができた時、わたしたちは復活の神秘というものをも幾らか理解できるようになっているのではないだろうか。

◆ そんなふうに「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」ものには、今や「あなたがたも人にしなさい」というイエスの言葉が、重苦しい命令ではなく、すがすがしい愛の勧めとして迫ってくる。そこに永遠の命の豊かさが感じられるはずである。コロサイ書の言葉に従うなら、そうして招かれたものからなる教会において、キリストの平和に与りつつその道を歩む中で、わたしたちはその愛を育み、一層身に着けて、ほんの少しずつかも知れないが、愛である神の本質に近づいていくはずである。つまり、わたしたちも神の子とされる、されていることを信じることができる。

◆ そして、わたしたちが神の子とされ、神をイエスと共に「父」と呼ぶことができた時、わたしたちはその神の愛がすでに世界の創造において与えられていたことをも知ることができる。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」。この創造の力、そして肯定の力が神の本質としての愛に他ならない。それは命の力、存在の力である。世界を肯定する力であり、その創造の意図を実現する力であり、それゆえに誰かに働きかける力である。その神の愛、敢えて難しい言葉で言えば、倫理的な愛からもう一歩踏み込んだ存在論的な愛とでも言うべきものが、わたしたち自身を生かす力であることがわかるならば、わたしたちはその神を愛し、世界を愛し、隣人を愛し、己を愛することができる、つまり、すべてを肯定して受け入れることができるのではないか。

◆ そのような神の愛に包まれて、終わりなき愛の道を共に歩むものでありたい。

2019年10月13日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年10月13日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第19主日 神学校日礼拝
説 教:「藁の書簡」
    大垣友行神学生
聖 書:ヤコブの手紙2章1〜9節
招 詞:ルカによる福音書16章19~31節
交読詩編:73;21〜28
讃美歌:28,477,545,412,91(1番)
◉礼拝場所:神学館礼拝堂

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