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2019年10月6日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.10.06 ルカによる福音書16:1-13 「窮地からの逆転」   望月修治   

◆ イエスは実に多くの譬え話を語りました。しかも巧みな語り手でした。譬え話において、イエスが語ろうとしたのは、神の領域に属することですから、人間の側からすれば、どうしても異質な部分が含まれることになり、「奇妙な部分」が出てくることになります。イエスの譬え話を読むときに大切なのは、この不可解な部分、奇妙な部分を理解できないからといって、脇に置いて飛ばして読むのではなく、実はその部分にこそ譬え話のポイントがあるのだということを押さえて読むことが、コツです。

◆ 今日の聖書箇所に記されている「不正な管理人」の譬えもそのひとつです。ひとつというよりも際立って理解困難な譬え話です。なぜなら「不正な」管理人がほめられる話だからです。ある金持ちの人の財産管理を任された管理人が使い込みをしてしまった。それが発覚して会計報告を出すように言われます。「このままでは確実に解雇される」、ではどうしようかとこの管理人は考えます。そしてこの金持ちの主人から借金をしている人たちを呼んで、証文を書き直させて、実際に借りているものより少ない数字に書き換えてやった。そうすれば自分が管理人の仕事を解雇されても、その人たちが恩義を感じて、世話をしてくれるだろうと考えたからだというのです。現代風に言えば、これは横領詐欺事件です。厳しく罰せられて当然です。それなのに、この主人は「抜け目のない奴よ」と褒めたというのですから、あり得ない話です。どう考えても納得できることではありません。

◆ 追い詰められたこの管理人はいったいどうするだろうかと、イエスの話を聞いていた人たちがおもわず身を乗り出すように興味津々で聞き入っているという情景が浮かんできます。管理人は悔い改める訳ではありません。彼はまず自分にどのような可能性が残されているか考えます。このままでは確実に解雇され、職を失います。では解雇されたあと何が出来るか、畑仕事や土木作業をして地道に額に汗して生活の糧を得るというのは嫌であり、またかといって物乞いをするのもプライドが許さないという怠惰な人間です。そこで思いついたのが、主人に会計報告を提出するまでに残されたわずかな時間を利用することでした。主人に借りのある何人かを呼び出して、負債証書を書き直させたのです。証書の偽造です。油100バトスの負債を半分の50バトスに書き直させる。小麦100コロスの負債のある人の証文は80コロスと書き換えさせたというのです。油100バトスは2,300リットルですから、50バトスと書き換えたら1,150リットルもの油を返済しなくてもよいことになります。同様に麦100コロスは23,000リットルになりますから、80コロス書き換えたら、20コロス分、4,600リットルの小麦を返済しなくてよいことになります。こうしておけば負債者たちは当然、恩義を感じるでしょうし、いざとなれば彼らも共犯者ということになりますから、めったなことは出来ません。恩義と弱みを同時に負債者たちに与えたことになります。そして、主人がこの不正な管理人の抜け目ないやり方をほめたという結論で締めくくられるのです。これがこの譬え話の困難な点です。

◆「抜け目のないやり方」とあるのは、まだ管理人として力を行使できる時に、主人に借りがある人々の借財を勝手に減らすということでした。この「抜け目ないやり方」は裁かれるべきものです。このような不正をほめることは私たちの道徳観を否定しています。職権を乱用し、使い込みをしてまで生き残ろうとする解雇寸前の管理人に、私たちが感じるのは怒りや嫌悪感です。もし罰も免れるとしたら、これは不公平以外の何物でもありません。

◆ しかしです、イエスは、同様の譬え話を別のところでもしているのです。マタイ福音書20:1-16の「ぶどう園の労働者」のたとえです。この譬え話を聞いていた人々はやはり同じような怒りを覚えたに違いありません。天の国のたとえとして語られたこの話では、ぶどう園で夜明けから働いた労働者も、朝9時から働いた労働者も、その後、12時、午後3時、午後5時から働いた労働者も、みな同じ1デナリオンを受け取るのです。この話を夜明け前から働いた労働者の身になって聞けば、憤るのは当然です。

◆けれど、私たちも人生の危機に瀕することがあります。誰もが夕方5時まで働く場がなく、それでも1デナリオンを稼がなければ死ぬしかない労働者になりえる可能性を持っているのです。私たちは、自分がどのような者であっても生きてよいと肯定されなければ死ぬ以外に道はないのです。イエスは「不正な管理人」の譬え話をあざ笑うファリサイ派の人々にこう語ります。15節です。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」イエスは人間の判断によって正しいと考え、自らを誇る人々に警告を発します。そして自らを誇れない人を顧みるのです。

◆ ルカ福音書19章に記されているザアカイの物語の中で、こう記されています。ザアカイという人は「徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。」 ザアカイの富は不正に得たものです。それゆえ自分が神の前に正しくない徴税人の頭であり、同胞からも裏切り者扱いされていることを嫌という程知っています。この人にイエスは声をかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。しかし「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』」。 誰も訪れてはくれなかった家に、罪深いと自分も思っている、その自分の名を呼んで、あなたの家に泊まると言ってくれる人がいる、見て見ぬ振りをしない人に初めて出会った。だからこそザアカイは悔い改めるのです。不正な管理人のたとえでは、主人から「抜け目のないやり方」をほめられた管理人がどのような反応を見せたのかまでは書かれていません。しかしザアカイの話と同じ結末があります。そこには人間の生きる営みを善悪の判断にとらわれずあたたかく見守るイエスのまなざしがあります。

◆ 聖書は人間が生き延びるために必死になる姿を描きます。しかし、その人々を断罪していないのです。断罪されれば滅びるだけです。不正な管理人に対するイエスの判断は断罪ではなく、無条件の肯定です。これは管理人の行動そのものが正しい、賢いとかいうことではありません。管理人の側に何か評価できるものがわずかでもあったということではなのだと思います。生きるためにあらゆる手段を講じる、そうせざるを得ない人間を神は断罪されないということなのです。人が自らの正しさによって神に近づけないとすれば、どのように神は人間と出会ってくださるのか。それは私たちの罪、私たちの破れの露わになったところに神の側からその御手を差し伸べていただく以外にないのです。イエスが私たちに求めるのは、利己的で貪欲な自分をごまかしたり隠したり打ち消したりすることなく、そのままの自分としてイエスに出会うことです。9節でイエスは語っています。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。」それはなりふりかまわずということです。私たちがなりふりかまわず今、求めて行くべきことは何か。それはイエスを友とすることです。ヨハネ福音書が描くイエスは語ります。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(15:15)このイエスを友とし、イエスにいざなわれ、他者の隣人になるために生きることへと向かうことを、イエスは私たちひとりひとりに求めておられるのです。

2019年10月20日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年10月20日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第20主日
説 教:「信仰によって」
    牧師 髙田太
聖 書:ヘブライ人への手紙11章32〜12章2節
招 詞 : ヨハネ黙示録22章12~13節
交読詩編:78;1〜8
讃美歌:25,15,565,458,91(1番)

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