SSブログ

2019年10月13日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.10.13 ヤコブの手紙2:1-9 「藁の書簡」   大垣友行   

◆ 本日の箇所は、いささか教訓じみた感じを覚えさせるような気がいたします。多かれ少なかれ、身なり次第で、その人の人格まで判断してしまうところが、わたしたちにはあるように思われるからです。イエスが、最も大切な掟であるとした、レビ記まで引き合いに出しながら、人を分け隔てするならば、律法に違反することになる、とまで述べられており、大変厳格な感じがいたします。身なりに限らず、様々な要因が理由となって、人間、誰しも好き嫌いや相性のよしあしを感じてしまうものなので、こういう箇所を読むと、どうしても後ろめたさを覚えてしまいます。ましてそのことが、自分の救いに関わっているということならば、なおさらであります。

◆ ところで、わたしたちの教会は、いわゆるルター派ではありませんが、プロテスタントという大きな枠組みのなかでは、ルターと一応のつながりを保っているものと考えられます。そうなると、当然、わたしたちにとっても、ルターの思想は重要なものであることになります。彼は信仰義認について語りましたが、それは信仰によって義と認められる、すなわち、救いにつながる道は信仰しかない、という考え方です。ルターは、パウロの手紙を精読して、こうした確信に至りました。しかし、ヤコブの手紙の続きを見てみますと、2章24節に、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」と書いてあります。この一節は、一見したところ、ルターの信仰による義という考え方、信仰によってのみ神によって正しいと認められるとする考え方を、根底から揺るがすようなものを含んでいるように思えます。本日の箇所からも見て取れますように、律法や行いを、救いにとって重要なものと見る、こうしたヤコブ書の思想を、自らの思想に対立するものと考えて、ルターはこのヤコブ書を、値打ちのない、藁の書簡と呼んだそうです。

◆ しかし、このヤコブの手紙は、パウロ的な考え方に対立するように意図して書かれたものではない、とされます。むしろ、この手紙は、パウロの思想を曲解した当時の人々に向けて、これを是正するために書かれたものだということです。いましめられているのは信仰「だけ」を重視する立場です。信じてさえいれば、別に何をしようと救いにはかかわりない。取り消されることもない。それなら、他人を慮って不自由な目を見るより、好きなように生きたほうがいいではないか。おそらくは、そのようなことさえ考える人々がいたことだろうと思われます。そうした、倫理的な事柄に目を向けない人々に対して、ヤコブの手紙は書かれております。信仰と行いとが密接に関わり合っていることは、すでにイエスご自身がお示しになっているところでもあるわけです。

◆ しかしながら、こうして信仰と実践の問題について考えてみても、どうしてもはっきりしない感じが残ります。結局のところ、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。信仰によるのか、行いによるのか。そして、そうした違いは単なる立場の違いなのか。こうした問いはいつまでも割り切れず、答えが出ないままであるように思います。でも、わたしたちは、こうしたことについて悩む必要はないようにも思います。なぜなら、救いというものは、結局のところ、イエス・キリストを通して、すでに、そのはじまりを与えられている、と考えられるからです。

◆ 新約聖書中、ガラテヤ書、ローマ書などのパウロ書簡の中には、「キリストの信仰」という言葉が、度々現れます。問題となるのは、その解釈です。原文の訳し方によっては、「キリストに対する信仰」と、「キリストが持っている信仰」とに解釈が分かれます。これまでは、そしてとりわけ、宗教改革の文脈では、前者の解釈が、つまりわたしたちキリスト教徒の、イエス・キリストに対する信仰こそが、救いにつながるものと考えられてきました。ところが、後者の解釈によりますと、信仰はイエス・キリストによるものということになります。また、信仰と訳される言葉は、ギリシャ語では「ピスティス」と申しますけれども、この言葉も、ただ信仰とだけ訳されるのではありません。この場合は、偽りがないとか、まことであるとかいうニュアンスを持つ「信実」という訳語(信仰の信に、誠実の実と書く信実です)を当てるのが適切であると考えられます。わたしたちは、イエスが信実であることによって救われるのだとパウロは言っています。このことはつまり、イエスが最終的には十字架につけられて、わたしたちのために死んでくださるという愛の行為を成し遂げられる、ということを意味しています。

◆ このように考えてみますと、わたしたちは、たとえば今日の箇所にあるような、人に分け隔てなく接するようにという教えを、意外と素直に受け入れて、実践できるのではないでしょうか。つまり、自己正当化を、自己自身の手で果たすといったような、なにか息が詰まるような思いで、人を受け入れ、助けるということをしなくてもいいと思えるのではないでしょうか。人を分け隔てするな、というヤコブ書の教えは、すでにイエス・キリストが、実際にお示しになっておられます。それは、様々な立場にある人々をその食卓に招くことでありました。こうしたイエスの愛のわざを、イエスにつながっている信仰を支えにして、それに倣おうとすることができると思います。いわば、イエスが示された愛のわざを理想として、わたしたち自身の行いを、少しずつでもそれに近づけてゆこうとする気持ちが大切だと思います。

◆ とはいえ、近い隣人、また遠い隣人の苦しみは、意外に見えづらく、背負うことは大変難しいものです。単なる同情ははねつけられたり、自分自身がつらい思いをしてしまったりしかねないものです。それでも、様々な努力によって、その姿は次第に浮かび上がってき、対処法が見つかってくるものと思います。イエスに連なる教会として、まだ見ぬ人々の姿をしっかりと捉えて、わたしたち自身の食卓に招くことができるようでありたいと思います。時にはこの、派手さはなく、厳しい感じさえする藁の書簡を開いて、どうか主の示された愛のわざに倣うための手がかりを拾い上げることができればと思います。

2019年10月27日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年10月27日(日)午前10時30分
降誕前第9主日
説 教:「創作工房の六日間」
    牧師 望月修治
聖 書:創世記1章1〜5節、24〜31節
招 詞 : コロサイの信徒への手紙1章15~17節
交読詩編:104;19〜23
讃美歌:24,6,416,223,91(1番)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。