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2015年6月28日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.6.28  使徒言行録11:4-18「ペトロの不思議な旅」         

◆ 使徒言行録の10章から11章18節には、ペトロがコルネリウスという人物と不思議な形で出会ったという物語が記されています。ペトロとコルネリウスの出会いがどうして起こったのか、その事情は使徒言行録10章に記されています。それによると、ある日の午後3時、家で祈っていたコルネリウスは不思議な体験をします。輝く服を来た人がコルネリウスの前に立って、ヤッファに人を送って、皮なめし職人シモンの家に滞在しているペトロをカイサリアに招いて、ナザレのイエスについての話を聞くようにと促されたというのです。コルネリウスはさっそく三人の使いの者をヤッファに派遣しました。招き応じてカイサリアにやって来たペトロはなぜ自分を招いて下さったのかとコルネリウスに尋ねます。そして求められるままにイエスのことを語りました。その結果コルネリウスはペトロから洗礼を受けるのです。

◆ 10章の記事を読むと、コルネリウスがペトロと出会い洗礼を受けるまで、わりあいにスムースに事が進んだという印象を受けます。しかし実際には、一介のユダヤ人であるペトロが、ローマの駐留軍の隊長である人物に出会い、しかもその人が彼から洗礼を受けるということは、当時の時代状況を考えれば、大変なことだったはずです。この二人の間には高い壁があったからです。その壁というのはユダヤ人とローマ人という違いによる壁、すなわち支配される者と支配する者との間に立つ壁です。そしてもうひとつ壁があったと思います。それは、ペトロが持っていた信仰、あるいはものの考え方がいつの間にか作り出していた壁です。ユダヤ人は、自分たちは神から特別に選ばれた者であると考えてきました。選民思想あるいは選民信仰と呼ばれている考え方です。それはコルネリウスに対してというだけではなく、ユダヤ人とユダヤ人以外の人たち、異邦人との間にできていた壁です。

◆ 自分たちは特別な使命を神から託されている存在なのだという自己理解、選民思想と呼ばれる理解はユダヤの人々を支えてきました。しかし反面、そのような強い思いはこだわりを生み出し、新しい状況が起こってきたときにそれを柔軟には受け止められない固さになってしまうことがしばしばあります。ユダヤの人々は伝統に関する固さの故に、イエスの福音の自由さに反発し、とまどいました。自分たちは神の選ばれた民だというユダヤ人の強い思いは内に向かっては大きな支えとなりました。しかし、ユダヤ人以外の人々に向かう時、あるいは新しい出来事や事柄に対しては、それらを排除する高い壁になってしまったのも事実です。

◆ ペトロもそんなユダヤ人の一人でした。イエスと出会い、神の働きはユダヤ人のみならず、全世界の民に等しく向けられることを繰り返し教えられても、なお彼は自分たちユダヤ人を神の選ばれた存在として特別視することから自由になりきれなかったのです。11:5以下には、ペトロがヤッファという町に滞在しているときに見た夢、幻について書かれています。ここにはユダヤ人ペトロのこだわり、福音を伝える上で踏み越えるべき大きな壁があったことが示されています。彼が見た幻は、天から降りてきた大きな布のような入れ物の中に豚や蛇などユダヤの掟では決して食べられないものがたくさん入っているというものでした。それらは旧約の時代からユダヤでは食べると汚されるとされているもの、また救いに与ることは出来ないとされていて、異邦人が食べるものとされていたものでした。しかし天から声があって、それらを食べろと言いうのです。「それは私には無理だ」とペトロ答えます。それでもなお天からの声はペトロに「食べろ」と言ったという、実に奇妙な幻です。この奇妙な幻を見てペトロはずいぶん悩んだことだろうと思います。何故こんな幻を見るのか、その理由を受け取りかねていたはずです。この幻の意味は3人の訪問者によって次第に明らかになっていくのです。

◆ ペトロがその幻について思案に暮れているところへ、コルネリウスの使いが訪ねてきたわけです。そしてコルネリウスが是非ペトロと会いたいと言っていると告げます。ユダヤ人のペトロにすれば、ローマ軍の隊長に会うなど、少なくともいいことは想像できません。譬えるならユダヤの律法で禁じられていた豚や蛇を食べるようなものでした。当然ペトロはこの招きにたじろぎ、ためらいます。あれこれ思いめぐらす中で、幻の中で天からの声が繰り返し「食べろ」と語りかけてきたのを思い出します。そしてこの幻は新しい出会いのために自分が築いてしまっている高い壁を踏み越えて、自由になっていくようにと、神が見させてくれたものではないのかと気づきます。事実、この幻を見ていなかったとしたら、そして幻の奇妙な内容に思いを巡らすことがなかったならば、ペトロはコルネリウスと出会う勇気や、自分の壁を踏み越える自由をもてなかったのではないかと思えます。ですからこの幻は新しい出会いへの伏線になります。

◆ 神は、人にいきなり難しい事を要求したり、いきなり自分を大きく変えることを求めるのではありません。必ずどこかで、その準備の時が供えられていくのです。私たちの日々の暮らしのひとコマひとコマが、伏線となって、私たちを新しく変えていくのだと、この物語は語っています。幻もその一つです。神がペトロに差し示したのは、<二つの自由>だと言えます。一つは彼が持っている信仰やものの考え方によって築き上げられてしまっている壁からの解放、束縛からの自由です。ペトロが見た幻の中で天からの声が求めたのはそのことです。

◆ もうひとつは、自分が築いていた壁を乗り越えて、新たな出会いに向かう自由さです。今日の箇所で言えば要請に応じてカイサリアに出かけ、コルネリウスに会うということです。何か新しいことをすることに、あるいは新しい出会いをすることに、壁を作ってしまう。このことに関わりたくない、この人とは交わりを持ちたくないという壁をなかなか崩せない自分を、私たちはどこかに持っています。自由さを外に向けることに人は臆病です。ペトロが踏み越えることを促された壁は、何かをすることに臆病になってしまうという壁、新たな出会いを妨げる壁です。その壁が低くなったら何が見えるのか、どんなことが味わえるのか、神はそれをペトロに示すために幻を見せ、コルネリウスとの出会いを用意したとは言えないでしょうか。コルネリウスはペトロによって、キリストの福音に深く触れ洗礼を受けるのですが、実はペトロの方こそコルネリウスによって自由にされたとも言えるのです。

◆ 人間の最も人間らしい生き方を、パウロは自由ということに見出しました。福音は、人間をさまざまな束縛から解き放ち、自由を与えて、わたしたちを生かす力です。パウロもガラテヤの信徒への手紙の中で(5:13)「あなたがたは、自由を得るために召されたのです」と語っています。しかし同時に「自由を愛によって仕えるために用いなさい」とも語っています。「自由」と「仕える」この二つは対立する概念です。自しかしパウロは自由でありつつ人に仕えて生きよと促しているのです。

◆ それは、自由であるということは誰かと一緒に生きているということがあってはじめて意味を持つからです。他者と共に生きることなしに、自由を語っても意味はありません。生きていることの意味、豊かさは誰かとつながっていくときに与えられます。自分以外の誰かにとって自分がここにいることに意味があると確認できるとき、誰かからあなたがここにいないと困ると言われるとき、自分がここにいることを求められていると実感できます。その確認が人を支えるのです。

2015年7月12日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年7月12 日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第8主日
説 教:「どう生きるか」
牧師 望月修治
聖 書:ガラテヤの信徒への手紙
 6章1~10節(新約p.350)
招 詞:ルカによる福音書7章47-49節
讃美歌:26、196、403、474、91(1番)
交読詩編:38;10-23(p.42上段)

※次週の礼拝は栄光館ファウラーチャペルにて行われます。どなたでもお越しください。

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