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2022年5月29日(日)の説教要旨 [説教要旨]

ヨハネによる福音書17章9〜13節 「神のみもとへ」 髙田太
   
◆ 「イエス様はいつもわたしたちと共にいてまもってくださる」。こどもの教会の礼拝などで、神学生らがよくそんなふうに語ることがあった。こども讃美歌の歌詞にもそういうのがある。しかし毎年この時期になると、これが気になってくる。先の木曜日が昇天日であった。復活のキリストは天に昇った。もういない。世の終わりまで共にいると、天に昇ってもういないは両立可能なのか。

◆ こういうときに思い起こすのは、新約聖書学者の橋本滋男先生が常々、聖書は素直に読むのではなく真剣に読まねばならないと説いておられたことである。18世紀半ばドイツのハレ大学で活躍したJ.A.ネッセルトという神学者がいるが、彼も次のように語っている。「もし神学生が、他人から学んだことを口まねする(nachbeten)とか、いつも同じことを念仏のように唱える(herbeten)以上のことをしないならば、神学生は必要とされず、朗読者を雇えばよいというだけのことになる」。同じ時代に、I.カントもケーニヒスベルクで、若い神学生に、口まねを避けて自ら考えることを教えた。

◆ 理性の光によって教会の権威や束縛を打倒する啓蒙主義の風は、当時のドイツの神学においてはネオロギーという立場を流行させた。それは一方で束縛からの自由を謳うばかりで、聖書を古代の遺物として人々を聖書や旧来の教え、正統主義から遠ざけるものであった。真摯に聖書の近代的、合理的解釈に取り組むネオローゲがいた一方、流行に乗ってそれを口まねするだけの人々がネオローゲを自称して行った。そうしてネオロギーの波は、反動を引き起こした。国王の交代に伴い、正統主義信仰の復権に舵を取った政府が、法規と罰則によって、旧来の信条や教理問答書に牧師たちを縛り付けようとすると、「口まね」する神学生や牧師たちはころりと立場を変えていった。流行のリベラルな教えにせよ、保守反動の旧来の教えにせよ、それを「口まね」するのではなく、自ら考え自らの確信を求めていくところにこそ、真の自由の精神があるということを教えられる。

◆ こうしたことを前置きとし、振り返れば11週ぶりに講壇に立たせて頂いている。望月先生との別れがあり、菅根先生が着任されてイースターを迎え、定期総会を終えて今日に至っており、次週がペンテコステである。大きな変化の11週であった。イエスの弟子達もそうだっただろうか。エルサレムへと旅をし、入城して1週間、イエスが捕らえられ殺され、復活がある。使徒言行録によれば、復活のイエスは40日弟子達と共にいて、天に昇る。それが先の木曜日。キリスト不在のまま、弟子達はそこまでの歩みを振り返りながら、礼拝を守っただろうか。120人ほどが一つになって祈っていたとある。

◆ そうして1週が経ち、聖霊が降る。それがペンテコステの日である。ペンテコステを訳せば五旬祭で、過越祭から50日目ということである。イエスは過越祭の最中、金曜日に十字架で殺され、日曜日に復活した。その日曜日から50日、ちょうど7週目の日曜日が教会の記念日としてのペンテコステである。教会暦の組み立てにより、わたしたちはイエスと弟子達の旅を味わうことができるが、それもそもそものユダヤ教の暦がそのように組み立てられていたからである。過越祭は出エジプトを記念する祭りである。エジプトを出た人々は三月目にシナイの荒れ野に到着し、そこでモーセは山に登り神から律法を受け取りイスラエルの民に告げた。これを記念するのが元来のペンテコステだった。

◆ そうだから使徒言行録はここに聖霊降臨を設定した。モーセが山に登ったように、キリストは天に昇る。聖霊を神のもとから世に与える。モーセが文字の律法を与えたのなら、キリストが与えるのはエレミヤ書に預言された霊の律法である。神ご自身が人の心に書き記すとされた新しい律法である。聖霊がこれを告げるのだが、神の霊は風の音で示される。天地創造の時に土で形作られた人に命を与えた神の息吹。これが弟子達の群れに与えられる。弟子達の群れが体であり、そこに命の息吹が与えられて教会が生まれる。命の霊がその体を動かし、弟子達を宣教に導いて地上で神の御心を実現していく。

◆ 他方で、イースターの後、わたしたちは聖書日課に従いヨハネ福音書を読んで来た。特に先々週からは15章、16章と読んで来て今日が17章である。しかし、この箇所は14章とのつながりという点で何とも不自然なところである。だから、15〜17章は丸々後から編集者によって付け加えられたという説がある。ギリシャ語の文が随分違うことからもそれがわかるようで、田川建三氏の注解によると、15〜17章は「極めて下手くそなたどたどしいギリシャ語。」だとのこと。けれども、これを復活のキリストの言葉として聴くために、聖書日課ではそう指定されているはずである。下手で何が言いたいのかわからないギリシャ語を駆使してまでして、特に迫害を受けるような状況で書かれねばならないことが何であったのか。それはまた、イエスが世を去って不安の中にあった弟子達の思いとも重なる。

◆ 冒頭の問いとの関連で読むなら、こちらも「天に昇ってもういない」の説をとっている。17章11節には「わたしは、もはや世にはいません。……わたしはみもとに参ります」、16章にも「わたしが去って行かなければ、弁護者は……来ない。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」とあり、イエスは世を去るが、それは神のみもとから弁護者、つまり聖霊を送るためだと言っている。その霊がイエスについて証しし、「真理の霊が来ると、……真理をことごとく悟らせる」と言うのである。

◆そのようにして悟られる真理とは何か。それはイエスが神だということである。17章8節には「わたしがみもとから出てきたこと」、また神が「わたしをお遣わしになった」ことを弟子達が信じたとあった。この福音書は「はじめに言があった、言は神と共にあった、言は神であった」そして「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」として始まっているが、その締めくくりは疑う弟子のトマスが、イエスが神であると信じるところである。だから、イエスが神に遣わされたというだけでなくて、また神の子であるというだけでなく、神ご自身なのだというのがこの福音書のいう真理である。

◆こうした聖書の記述から三位一体の思想が生まれた。イエスが神自身であるなら、神がわたしたちと共にいることができるように、イエスも共にいることができることになるはずである。世界の中にいないからこそ、逆説的に、神はいつでもわたしたちと共にいることができる。「天の父」がそうであるなら、イエスが天に昇る意味もそこに見出すことができる。いずれにせよ、イエスが世の終わりまで共にいるというのは、高度な神学的反省に基づいているということになるが、天に昇ったということと両立不可能ではないと言える。そうして「世の終わりまで共にいる」というマタイ福音書末尾の物語を見れば、ヨハネ福音書が苦労に苦労をして描いた話しの同じ要素が、シンプル且つ滑らかに用いられていて、実は両者が同じ現実を伝えようとしていることに気付かれてくる。

◆ これで冒頭の問いに答えられているのかと思うし、難しい話しになったから、わたしも真理の霊を求めて祈りたいと思うが、イエスが天に昇ったからこそ、わたしたちにもその道が開かれるのだと「主我を愛す」の讃美歌にも歌われていた。キリストの体である教会において、これに命を与える聖霊の導きのもとで、わたしたちは少しずつ聖書を読んで、それが多様な仕方で証しする真理に触れて行く。時に、自らの理性を駆使して真剣に聖書に問いかけることが、聖霊の働きとそれが感じられる場所を備えるのだと思う。この教会の営みこそが人を育み、一歩一歩、この地上においてもわたしたちを神に近づけてくれる、そう信じて歩むものでありたい。

2022年6月12日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年6月12日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第2主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「神を愛せよ」
              牧師 菅根信彦
聖 書:申命記6章4〜15節
招 詞:ローマの信徒への手紙5章5節
讃美歌:24,343(1・4節),479(1・2節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
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※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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