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2017年10月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年10月8日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第19主日 神学校日
説 教:「私たちが与えられているもの」
吉居美緒神学生
聖 書:創世記27章18-29節
招 詞:コヘレトの言葉3章10-11節
交読詩編 :105;1-15
讃美歌:28、18、69、516、91(1番)

2017年10月1日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.10.1 エフェソの信徒への手紙5:1-5 「後継者の条件」  望月修治       

◆ エフェソの信徒への手紙は前半の3章と後半の3章と大きく二つに分けられます。前半はキリスト教の信仰についての基本的な考え方、すなわち教理、後半はキリスト者が神の民としてどのように生きたらいいのかという指針、倫理が記されています。イエス・キリストの教え、生き方を基盤に据えて生きることを、この手紙は「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」と表現しています。「新しい人を身につける」、それは今までもっているもの、身につけているものに、もう一つ新しいものが加わるのではありません。「古い人を脱ぎ捨てる」というのですから、土台が入れ替わるのです。

◆ 古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につける。これはこの手紙が書かれた時代に則して言えば、古い人とは昔ながらの偶像礼拝を続けている人のことです。神ではないものを神とする。真理ではないもの、本当ではないものを真理だという、それは的を外して生きることであり、滅びに向かうことだとこの手紙には記されています。そして25節以下には「新しい人を身につける」とはどう生きることなのかが具体的な例をあげて語られています。「隣人に対して真理を語ること」「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えること」「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語ること」「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合うこと」とあります。これらの勧めに共通していることがあります。いずれもつながりの中に自分を位置づけ、歩むことを促していることです。

◆ そのような生き方をする上で踏まえておくべきことを記しているのが今日の箇所です。1節です。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」。「神に倣う者となる」とはなんだか重くてしんどそうです。この後の箇所を読み進むとその思いは一層強くなってしまいます。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろ汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。」「卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。」・・・そのように生きられたらいいとは思います。しかし現実の私たちには遠い言葉だなと感じてしまいます。「神に倣う者」という表現は聖書の中で今日の箇所だけです。人から「わたしに倣う者になりなさい」と言われても重たいのに、まして神に倣う者にと言われたら、どうしていいのか途方にくれてしまいそうです。

◆ その思いを解きほぐしてくれそうな言葉が前後に記されています。「あながたは神に愛されている子供ですから」とあります。前後にと申し上げましたが、実は原文では、「神に倣う者になりなさい」という言葉が先にあって、それを支えるように「あなたがたは神に愛されている子供ですから」と続いています。誰だって「神に倣う者になりなさい」と言われたドン引きしてしまいます。「無理・無理・無理・無理」と叫んでしまいます。しかし、ずるずると後ずさりしていく者の背中にそっと触れて、支えるように「あなたがたは神に愛されている子供ですから」と言葉がかけれています。そして倒れこむ背中を支える手がさらに添えられています。2節です。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちの神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」。御自分をいけにえとして神に献げる。いけにえというのは、赦してもらう側が相手に、罪を犯した側が神に、赦しを願って差し出すものです。しかしイエスにおいて起こったのはその逆です。赦す側のイエスが自らをいけにえとする。神が人間にいけにえを差し出したのです。神の側が先手を打ったのです。人間がごめんなさいと言ったから許そうというのではない。まず赦しが告げられる。赦しているから帰ってきたらいいのだと神が宣言された、それがイエスの十字架の出来事の意味なのだと聖書は語るのです。悔い改めなくてもいいというのではありません。人間の悔い改めに神の赦しが先行するのです。赦すよと言われた時、人は心から悔いるのです。自分が受け入れられ、受け止められていることを知らされた時、人は「ごめんなさい」と心から言うのです。そして自分も誰かにそのような生き方をしてみよう。「神に倣う者」として生きてみたい。もちろん十分にできるとは全く言えないけれど、神の思いを大切にして生きてみようと思いが芽生えるのを感じるのです。

◆ 「福音と世界」という月刊誌の「みことば散歩」というコラムに、四街道教会牧師の望月麻生さんの「ごめんなさいの向こう」という一文が掲載されていました。その中で、聖書には人に対して「ごめんなさい、すみません」と謝ることはまったくと言っていいほどないことに驚いたと書いておられます。私たちにとって日常会話のもっともありふれた言葉である「ごめんなさい」「ありがとう」が、聖書では登場人物同士ではほとんどかわされていない。それは深い赦しも大きな喜びも、全て神を通して与えられることをそれは示しているのだと思うとありました。

◆ 謝りたくても謝れない、どう謝罪していいのかもわからない、そのような思いを抱いて生き迷うことが人には幾たびも起こります。誰から「お前のことは許せない。あなたのことは許さない」と言われたら、辛いし、苦しいし、どう謝ったらいいのか、どう償っても償いきれないという後悔が渦巻きます。本来なら人は神に対してそういう立場なのです。でも「あなたがたは神に愛されている子供」なのだというのです。あなたたちは大切な子供なのだと神は宣言し、赦しを神の側から差し出すのです。そして「神に倣う者になりなさい」と語りかけるのです。

◆ 神のこの振る舞いは、差し出すという命の使い方を示します。福音は受け取るだけではなく誰かに伝える、差し出すことによって私たちの中で息づき、命を持つものとなるのです。福音という言い方が漠然としているなら例えば支えや助け、慰め・・・・つまり一緒に生きるために必要なことというふうに置き換えてみるとイメージが具体的に広がります。大切なことはそれを家族の元に、あるいはそれを必要としている誰かと分かち合うために出かけることです。出かけるとは自分の殻から1歩出てみることです。自分が変わろうとすること、応答してみようとすることです。6:19「福音の神秘を大胆に示すことができるように」、6:20「語るべきことは大胆に話せるように」とあるのはそのことの勧めです。示す、語るとは伝えることであり、運んでいくことであり、届けようとすることです。「福音の神秘を語れ」などと言われると、何か大変なことだと私たちは思わず尻込みしてしまいます。しかしそんなに大袈裟なことではなく、何か自分からやってみるということなのです。4:25以下にはそのことが具体的に書かれています。日が暮れるまで怒ったままでいない。盗まない。労苦して得たものの中から分かち合う。悪い言葉を口にしない、あるいは少なくする。神の聖霊を悲しませない。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどを一切の悪意と一緒に捨てる。互いに親切にする。そして赦し合う。・・・・これを文字通りこのままやりなさいというのではありません。例えばこういうことがありますよというリストです。何よりこのリストは、自分の方から1歩を踏み出すことへの促しなのです。福音に生きるとは自分が変わろうとすること、応答してみようとすることです。そして福音を伝えるとは変わろうとする自分を示すことです。人は神に出会って変わりうるのだと、自らの生き方を通して示すことです。そしてそれが「神に倣う」ことだと思うのです。

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