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2018年4月29日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.4.29 ヨハネによる福音書15:1-11 「枝の心得」     望月修治       

◆「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(5節)福音書記者のヨハネはイエスと弟子たちとの関係をぶどうの木に譬えました。ぶどうはキリスト教のシンボルのひとつです。聖書には、ぶどう、ぶどうづくり、ぶどう酒、ぶどう畑という言葉を合わせますと300回以上出て来ます。ちなみに聖書に最初にぶどうが登場するのは創世記9:20です。ノアの洪水物語の終わりの部分ですが、箱船から出たノアは農夫として洪水後の世界に生きていったと物語られています。そのことを告げる箇所にぶどうが出て来ます。「ノアは農夫となり、ぶどう畑を造った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」エジプト第5〜6王朝(紀元前2500〜2350)の時代の壁画にもぶどうの収穫とぶどう酒作りの様子が描かれています。また1969年にシリアのダマスカス付近で実に八千年前のぶどうをつぶす道具と、ぶどうの種が発見されました。まことに古い時代からぶどうは人間の暮らしに関わっていたことが分かります。

◆ ヨハネ福音書は13章から、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語った言葉が記されています。今日の箇所もその晩餐の席で語られたという設定になっています。イエスは神と自分と弟子たちとの関係、結びつきをぶどう園の農夫と、そこに植えられているぶどうの木、そしてその木につながっている枝という、当時のユダヤの人々にとって親しみのある情景を具体的な例として挙げながら語りました。ここでイエスは、弟子たちはぶどうの木につながっている枝なのだと言っています。枝の生命は幹に依存しています。根と幹とによって供給される養分によって、はじめて枝は葉を茂らせ実を結ぶことが出来ます。枝は自らの力で育ち生きるのではありません。けれども私たちがぶどう園という言葉を聞いて思いうかべるのは葉を茂らせた枝であり、またそこに重く垂れ下がっているぶどうの実であろうと思います。ぶどうの木や幹、ましてや農夫の苦労に最初に思いが向けられることはまずありません。収穫期を迎えたぶどう園の主役はぶどうの木の枝とそこにたわわに実った多くの実です。木の幹や、その木をずっと手入れし、労苦を重ねてきた農夫の姿は背後に押しやられてしまいます。特に農夫についてはそうであろうと思います。ぶどうの木に芽がつき始めるのは3月です。枝を伸ばし花を咲かせやがて青く堅い実がつきはじめると、それに合わせて農夫は枝を剪定し、木の周囲の畝を手入れし、除草作業を行う。加えてぶどう畑を獣や盗人が入り込んで荒らさないように気を配る。この作業は暑くむせ返るような夏のさ中にも休むことなく続けられます。この労苦の多い働きが積み重ねられた上に、ようやく豊かな実りが生み出されます。にもかかわらず農夫の汗と労苦と忍耐は表にその形を刻むことなく、収穫期のぶどうの実の背後に隠れていくのです。そして人は実ったぶどうの実にのみ思いを向けていきます。実とは人間が実際に自分で見て、触れることのできるものを表しています。私たちの現実の中では、その実が中心に置かれます。しかし聖書は隠されている世界に、背後に押しやっている世界に私たちが思いを向けて行くべきことを語りかけます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という、このイエスの言葉は人間とはいかなる存在かを宣言している言葉です。人は「枝」なのです。私たちは自分が幹であるかのように思っています。自分の力で立ち、自分の力で生きていけると思っています。イエスはそうではないと宣言するのです。あなたがたは枝なのだ、幹から供給される養分によってはじめて命の営みを継続できる枝なのです。

◆ イエスはそのような枝である私たちに「わたしにつながっていなさい。」(4節)「わたしの愛にとどまりなさい」(9節〜10節)と繰り返し語りかけるのです。そして言います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(12節)「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」のだ。(16節)。愛には明確なひとつの順序があります。愛はまず外から届く。まず愛されることを十分に味わって、はじめて人は愛することの大切さ、愛を注ぎ出すことの深い喜びと意味を知っていく。この順序は逆転できません。だからイエスはまず「わたしがあなたがたを愛したように」と言うのです。そしてそのことをあくまでも前提として「互いに愛し合いなさい」とイエスは語っているのです。 

◆ 13:1にイエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記されています。そしてそのことをイエスはその場にいた弟子たち一人一人の足を洗うという具体的な行為を通して示されたとあります。イエスがあなたがたを愛したと記されているこの「愛」はアガペーという、徹底して愛し抜く、徹底して仕えきるという激しさと熱さと深さを表すギリシャ語で表現されています。神のこの徹底した愛が十字架の出来事となって示されたというのが聖書の証言です。これはおろかな愛です。十字架にかかって死ぬのですから・・・・。しかしそうであるからこそ、この愛に出会った者、気づいた者を激しく突き動かすのです。けれども人間の愛には己が顔を出します。結局は自分が中心に来てしまうことを私たちは様々な出会いの中で思い知らされるのです。私たちは枝であって幹ではないのです。ですから人間の愛は「あなたがたをこの上なく愛し抜く」という神の愛に裏打ちされることが必要なのです。

◆ イエスはこの愛を人が「友のために自分の命を捨てること」(13節)という表現で示しました。しかしコリントの信徒への手紙Ⅰ13:3「自分の体を焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」とも語られています。友ために命を捨てるということは、神の愛に支えられていなければ、無益だというのです。命を捨てることが無条件に意味を持つということではなくて、どこに向けて命を託して行こうとするのかが問われます。イエス・キリストは十字架の孤独の中で、なおその命を神の手に委ねました。その点がしっかり押さえられなければなりません。命を投げ出すことの尊さが盛んに強調されています。「国のために」という枕詞を付けてです。しかし命は国に託するものではありません。なぜなら国は命の創り主ではないからです。私たちの命は創り主である神にだけ託し、委ねるものです。わたしたちの命は幹である神につながっていて、初めて葉を茂らせ実をつけることができるのです。「あなたがたは枝なのだ」ということを命の座標軸とすることを聖書は促しています。

◆ 14節・15節でイエスはこう語っています。「わたしの命じることをきちんと行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」あなたがを友と呼ぶという、その理由は主人が何をしているか知っているからだとイエスは語っています。今日の箇所で、主人が何をしているかを知るということは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という、私たちのいのちの位置付けをわきまえをもって受けとめることです。そのように生きようとする者をわたしは僕とは呼ばない、友と呼ぶとイエスは語ったのです。イエスから友と呼びかけられる自分でありたい、あり続けたいと思います。

2018年5月13日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年5月13日(日)午前10時30分
復活節第7主日
説 教:「一なる神」
牧師 髙田 太
聖 書:イザヤ書45章1〜7節
招 詞:ヨハネによる福音書 17章11節
交読詩編:102;13-19
讃美歌:25,338,37,83,91(1番)

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