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2017年1月29日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.1.29 マタイによる福音書21:12-17「供え物のしきたり」 望月修治    

◆ 誰でも怒りを感じるときがあります。しかしそのとき私たちはふと考えます。怒りは罪ではないのか、神への信頼が足りないのではないか。「キリスト者としての良識」なるものが作用して、怒りをあらわにすることにブレーキがかかるということもあるでしょう。けれども実際に、苦しむ人、虐げられた人への共感が深くなればなるほど、その人をさらに苦しめようとするものに対して怒りを禁じ得なくなります。怒ることは間違いなのでしょうか。聖書には「神の怒り・憤り」について、実はたびたび語られています。旧約聖書では少なくとも283回、新約聖書で38回です。ところがわたしたちは神の怒りや憤りの場面に出くわすとき、当惑し、どちらかと言えば自分の信仰生活のためにならないと考えて、読みとばしてしまいがちです。しかしそれは違うのでなないか。神の怒りは、人を救おうとする神の働き、愛と正義と切り離すことができないものなのではないのか、と思うのです。

◆ イエス・キリストはどうだったのでしょうか。今日の箇所でイエスは怒っています。場所はエルサレムの神殿の境内です。イエスの時代、エルサレムの神殿は、犠牲の献げ物をする唯一の場所でした。神殿にはいくつかの庭がありました。中央部分の奥に聖所、至聖所、そのまえにまず祭司だけが入れる祭司の庭、その手前に男たちが入れる男性の庭、その手前には女性もここまでは入れる女性の庭があり、そのさらに外側を囲む形で異邦人の庭がありました。この庭には誰でも入ることがゆるされました。しかし異邦人はここまでで、これより先に行けば殺されたといいます。日中、熱心な信徒たちは、いずれかの庭で聖所に向かって祈りました。神殿を囲んで建てられていた柱廊ではラビたちが子供たちや人々に律法を教えました。

◆ 今日の箇所の舞台は神殿の境内の中の異邦人の庭と呼ばれていた場所と特定できます。商売をすることが赦されていたのは異邦人の庭だけだからです。そこでは、12節にあるように、二種類の商売が行われていました。両替と鳩を売る商売です。神殿に参拝する者はたいてい、何かの犠牲をささげなければなりませんでした。鳩は女性が出産後の清めのために、あるいは重い皮膚病が全快したことを証明してもらうために必要な犠牲でした。犠牲にささげる動物を神殿の外で買うこともできました。しかし、犠牲としてささげる動物は傷のないものでなければならないという規程があり、検査官は神殿の外で買った動物は必ずといってよいほど不合格とし、神殿の売店から買うように指示しました。この場合、神殿の外と内の価格が同じであれば参拝者の負担は同じですが、神殿の外で買えば鳩ひとつがいが50円程度であったのに対し、神殿内では750円もしました。実に15倍という法外な値段です。

◆ 神殿は当時のユダヤの中心的金融機関という性格を色濃く持っていました。ユダヤの全ての成人に課せられた神殿税(2日分の労働賃金に相当する額)、十分の一税(地の産物の十分の一、あるいはそれに相当する金額)、国の内外から持ち込まれるおびただしい数の奉納品、祭りごとに参拝者がささげる犠牲の動物の莫大な売り上げ金、さらには両替の手数料、そのすべてが神殿の収入となる仕組みが出来上がっていたのです。エルサレムの神殿は、ユダヤ人の自治機関である最高法院と一体になって、宗教と経済が不可分に結びつく中心的機能を果たす場でした。それは律法の名の下に神殿が合法的に社会的弱者への経済的、精神的圧迫を行っていたということでもありました。巡礼者を相手とした商売による収入を抜きにユダやの神殿体制は成り立ち得なかったのです。今日の箇所に記されたイエスの激しい行為は、もはや祈りの場となっていない神殿の内実への批判であり怒りを示すものだと言われてきましたが、しかしそれだけで、この時イエスが見せた過激な行動の意味を説明し切れるのでしょうか。

◆ 「宮清め」と呼ばれているこの出来事は、四つの福音書のいずれにも記されています。誰が見ても過激な行動をとったイエスの姿は、救い主イエスのことを物語るという福音書の目的からすれば、イメージを損ねてしまう姿であると言えます。しかしいずれの福音書もこの過激なイエスの姿を除外せずに描いています。ということはこのイエスの振る舞いはイエスの宣教活動の中心につながる振る舞いであったからではないでしょうか。だから省略しなかった、いや省略できなかったというべき出来事だったのです。

◆ 神殿での商売は「異邦人の庭」と呼ばれる外庭で行われていました。そこはしかし唯一異邦人に許された祈りの場所でした。その「異邦人の庭」と呼ばれた区域には石の手すりがあり、そのところどころに「すべての外国人はこの手すりを越え、聖所の境内にはいることを禁じる。犯すものは死刑に処せられるであろう」という警告が、ラテン語とギリシア語で刻まれていました。使徒言行録21:28に、パウロが神殿の中にギリシア人を導き入れ、聖なる場所を汚したとユダヤ人から非難されたと記録されていますが、この異邦人の庭を越えて奥に外国人が入り込むことを厳しく禁じていた当時の神殿の状況を示す実例の記録です。エルサレムの神殿において異邦人が唯一許されていた礼拝の場が「異邦人の庭」と呼ばれていた外庭でした。しかしそこは犠牲の動物を売る商人たちや両替商たちの商売の場、金儲けの場となっていました。加えて人々が近道をするために通り抜けにも使われていました。神殿の敷地を近道として通ることは固く禁じられていました。しかし異邦人の庭は通り抜け禁止の対象とはなっていませんでした。ユダヤ人は、異邦人にとって唯一の礼拝場所をあってないかの如くに、ないがしろにしていたのです。

◆ イエスの怒りは、苦しめられている人の側に立った痛みの共感から来るものでした。人の痛みや苦しみに対する傍観者の態度、「他人の痛みなら3年でも我慢する」わたしたちの寛容さに向けられたものです。そしてまた、それを温存させる宗教の制度や社会の仕組み、正義に反する価値観に向けられたものだと言えます。この怒り、憤りこそ、わたしたちの信仰生活にしばしば欠けていたものであり、福音宣教にあたって、痛みの共感と共に、なくてはならない大切な部分なのではないかと思うのです。

◆ そのことをイエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」(イザヤ書56:7「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からの引用)というイザヤ書の言葉を引用することで示しました。「祈」という字には「求める」という意味もありますが、「つげる」という意味もあります。求めるだけではなく、大いなる者の「声」、神の「声」に耳を済ませることが祈りです。

◆ 他者の声を聞かないで、自分のことだけを考えて生きる生き方は、かえって自分を滅ぼします。私たちが担うべき本当の「仕事」は、日々の仕事のもう一歩奥に隠れています。人間には、社会的な仕事と同時に魂の仕事があります。でも、人はしばしば、社会的な仕事に忙殺されて魂の仕事を忘れます。それは人生の意味を大きく見失うことだと、イエスが語るのです。助けを求めている人を探すこと、それが魂の仕事です。イエスが神殿で示した行動には、そのことを忘れてしまっていることへの強い問いかけが込められていたのではないかと思うのです。

2017年2月12日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年2月12日(日)午前10時30分
降誕節第8主日
説 教:「律法の発想を越えよ」
牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
5章17-20節
招 詞:イザヤ書30章18-19節
交読詩編:119;9-16
讃美歌27、10、360、528、91(1番)

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