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2017年2月5日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017.2.5  マタイによる福音書13:10-17 「言葉をあなたの傍らに置く」  望月修治 

◆ 毎週の礼拝で読まれる聖書箇所は教団の聖書日課に指示されている箇所ですが、1月からはマタイによる福音書が取り上げられています。新約聖書に納められている4つの福音書はそれぞれ特色があり、異なった個性を持っています。マタイによる福音書の特色はイエスの関する様々な伝承をテーマごとにまとめて配置している点にあります。マタイにとってイエスの教えは重要でした。そのため基礎資料として用いたマルコ福音書の奇跡物語を相当に圧縮簡略化して、そのかわりに説教をブロックごとに集中させるという工夫を凝らし、イエスの教えを強調する構成にしました。イエスの重要な説教を5つのブロックに区分けし、物語と物語をつなぐ形で配置しています。そしてそれぞれの説教ブロックの結びに「イエスはこれらの言葉を語り終え・・・」というほぼ同一の文を5回置いて、これによって説教が終わって、イエスの活動を語る次の段階に進むことを示すという書き方をしています。

◆ 今日は13章を読んでいますが、この13章は3つ目の説教ブロックです。13章には「天国のたとえ話」が集められていて、福音書全体の中心的な位置をしめていています。13章には天国についてのたとえ話が7つ集められています。イエスは多くのたとえを用いて当時の人々に語りかけました。13章に集められているたとえは、もともとはそれぞれ異なった状況で語られたものですが、初期教会ではこれらのたとえを集めたイエスの「たとえ集」が作られたのだと思われます。マタイはそのたとえ集を入手し、さらに補充して7つの数に整えました。イエスは多くのたとえ話を語りました。中でも特に「天の国」あるいは「神の国」については「たとえを用いないでは何も語られなかった」とマタイはこの13章の34節で記しています。マタイ福音書には「たとえ」という言葉が17回使われていますが、そのうち13回はこの13章に集中しています。しかも後の4回も、13章以後に用いられているのです。では13章までの章にはたとえ話は全くないのかと申しますと、そうではなく、たとえ話かそれに準ずる説話はすでにいくつか出てくるのです。(7:24f、9:16fなど) けれどもそこでは「たとえ」という言葉は用いられていません。その理由は、マタイ福音書で「天の国」について語られるのは、この13章がはじめてだからです。「たとえ」という表現方法は「天の国」について語るために最も適切な方法であるとマタイは考えたのであり、そのために意図的に13章までは「たとえ」という言葉を使わなかったのです。

◆ イエスはたとえ話を巧みに用いて、人生にとって大切なことを伝え、神の思いを人々に伝えました。しかもそそのたとえ話は、当時のガリラヤ農民の日常生活に密着した題材で、極めて具体性に富み、誰の心にもまっすぐに届きます。その言葉はガリラヤ農民は普段使っていたものです。今日の箇所のすぐ前に出てくる種を蒔く人のたとえも、ガリラヤの農民の日常の姿です。当時の農業は実に粗いものでした。この辺りを畑にしようと思うあたりの地面にまず種をばらまきます。それから鋤でその地面を耕して、種と土を混ぜます。日本の農業のように、最初に畑を耕し、畝を作り、そこに肥やしをまいて、一粒一粒種を置いてゆくという丁寧なやり方ではありません。ですからある種は石ころだらけの地面に落ち、ある種は薮の中に落ち、ある種は道ばたに落ちます。イエスの実体験が活き活きと描写されています。譬え話というものは、どんな人でも人生の真実、生きることにとって大切なことがすなおに分かるように、難しい表現を避けて、具体的な事例の中から真実をしめす、大切なことを伝えるためにするものなのです。

◆ 今日の箇所ですが、種まきの譬え話のあとで、弟子たちがイエスの傍に来て、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と尋ねました。するとイエスはこう答えました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。だから彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず.聞いても聞かず、理解できないからである。」
このイエスの答えの前半部「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」というのは、「あなたたちは素直にわたしの言うことを理解するが、あの人たちは本当に分からず屋だ」というあきれかえった気持ちを表す聖書独特の表現方法です。理解困難な出来事をみんな神のせいにしてしまうのです。英語でも「God knows(神様がご存知だ)」という表現をしますが、これは「わたしに分かるものか!」という強い否定の意味になります。そういう分からず屋のためにイエスは卑近な例を持ち出して、噛んで含めるように神の働きを語ったのです。

◆ 神の働きは人がそれとは気づかぬほどにそっと、あるいは小さな動きとして始まることがしばしばですが、それは人の思いや判断を超えた結果を私たちの人生の中にもたらすのです。その不思議さを知ったとき、その人の表情は変わります。深く納得できるものが心に届くのを感じるのです。イエスの周りに集う人たちの中に、そうした表情の変化を宿していった人たちが少なからずいたであろうと想像するのです。

◆ 私たちがこの神の働きを確認し受け取り直す大切な場のひとつはやはり礼拝です。礼拝は教会の原点です。使徒言行録2章の冒頭には「聖霊降臨日(ペンテコステ)の出来事が記されています。そこには「一同が一つになって集まっていると」と記されています。これはイエスの弟子たちが共に祈り、共に交わり、共に礼拝に集まっていた時のことだと思われます。礼拝の場でこの出来事は起こったということになります。このことはとても重要なポイントです。ペンテコステ=「教会の誕生日」の出来事が起こる前に、すでに弟子たちは礼拝を守っていたのです。すなわち礼拝を守っていた弟子たちの間に神は聖霊を送り、教会を誕生させて下さったということになります。ですから使徒言行録の伝えるところによれば、教会があって礼拝が生まれたのではなくて、逆に礼拝があって教会が生まれたということになるわけです。神の働きに気づき、受け止めて生きようとした人たちが集まったところから教会は生まれたのだと使徒言行録は語っています。

◆ イエスはこの神の働きを一人でも多くの人たちに気づいてほしいと願い、譬え話を用いたのです。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることは許されているが、あの人たちには許されていない」と書かれているので、悟っていない者は排除されると読んでしまいがちな箇所です。しかしそうではなくて、イエスがたとえで話すのは、理解できない人、納得できない人、気づけていない人にも神の働きを受けとめてもらえるようにするためです。その人たちが日常体験し、よく知っていることを素材として用い譬え話として語って、神の働きの奥行きをひとりでも多くの人が気づけるように、そしてその命を生き生きと用いて歩めるように願ったからです。この気づきは年を重ねても新たに起こります。神はそのように働く方だからです。

2017年2月19日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年2月19日(日)午前10時30分
降誕節第9主日
説 教:「すべての民を」
牧師 髙田 太
聖 書:マタイによる福音書
15章21-31節
招 詞:マタイによる福音書11章28節
交読詩編:103;1-13
讃美歌25、37、356、405、91(1番)

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