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2017年2月12日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2017/2/12  マタイによる福音書5:17-20 「律法の発想を越えよ」   望月修治   

◆ どの宗教にも掟はつきものです。それぞれの掟が生まれたのにはそれなりの考え方があり、尊重すべき点があります。しかし、掟さえ厳格に守っていれば、それでよいとはいえません。そこに落とし穴があります。イエスが暮らしていたユダヤ教の社会でぶつかった大きな問題のひとつに、律法という掟の問題がありました。ユダヤ教の律法をその精神において誠実に守ることは正しいことであるはずです。その根本は人が互いに相手を大切にし、認め、受け入れあって、そこに幸せを築いていくということです。この律法の根本精神は納得できるものです。

◆ 律法といえば、すぐに思い浮かぶのはパウロです。回心前のパウロは実に頑固なファリサイ派でした。今日の箇所の最後20節に「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」とありますが、ファリサイ派は町や村にシナゴーグという会堂をいとなみ、ここを拠点として民衆の教育にあたり、人々から絶大な尊敬を受けていました。ファリサイ派の人々は律法のあらゆる掟を厳格に守ることこそ、神に喜ばれるのだと固く信じて、生活全般を厳しい掟によって律するように求めました。パウロはそのファリサイ派の一員として、律法に忠実に生きることにおいて誰にも後ろ指をさされないと自ら言うほど頑固な生き方をしていました。しかしファリサイ派の人々のそのような生き方は表の形だけを取り繕う形式主義に陥っていって、律法の根本精神である互いに相手を大切にし、認め、受け入れあって、そこに幸せを築いていくということを忘れてしまうという矛盾を抱えていたのです。イエスはその矛盾を鋭く指摘しました。

◆ ユダヤ教の人々はそのイエスを「神を冒涜している」とののしり十字架につけました。しかしそのあとの展開はユダヤ社会の指導者層の人々のもくろみを打ち崩すのです。当時ナザレ派と呼ばれていたイエスの弟子たちはおそろしい勢いで増えて行きました。このまま放置しては神聖なユダヤの伝統が骨抜きにされ失われてしまうことになる。熱烈なファリサイ派であったパウロは、強い危機感を抱きナザレ派の人々を激しく憎み、迫害しました。あるときパウロは、ダマスコの町にナザレ派が隠れひそんでいると聞いて、捕り手とともにこれを捕縛しに向かう途中、驚くべきことに、復活したイエスに出会うのです。そしてそれまでとは真逆に、ナザレ派、すなわちイエス・キリストの福音を信ずる者として歩み出したのです。パウロの回心と呼ばれるこの出来事は、強烈な衝撃波となって、驚きを人々に与えました。

◆ 17節には律法についてのイエスの実に印象深い言葉が記されています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」律法を完成するために来た、それがわたしの役目なのだとイエスは語りました。ユダヤ教の人たちは「律法をないがしろにしている」とイエスを責め立てました。しかしイエスは「律法を完成するのがわたしの役目だ」と断言します。

◆ それではイエスが語る「律法を完成する」とはどういう意味なのでしょうか。その答えをマタイは22章に記しています。22章34節以下です。ファリサイ派に属していた一人の律法学者がイエスを試そうとしてこう尋ねました。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」これは律法の根本精神は何かという問いかけです。イエスは答えています。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」律法の根本精神、本質は愛することだとイエスは語りました。しかしこのことが何かしっくりこないと思うことはないでしょうか。「愛」は自明のことのように私たちの暮らしの中にあふれ、語り合われています。けれども「愛」ということ、「愛する」ということが自分の中で焦点を結び切れていない、どこか漠然としていて掴み切れていないと感じることはないでしょうか。だとすると「わたしは律法を完成するために来た。律法の根本精神は愛することだ」とイエスが語っている、この肝心かなめのことが実は分かっていないということになってしまいます。それでは困るのですが、ではどうしたらいいのでしょうか。何か手がかりはないのでしょうか。

◆ ケセン語という言葉があります。岩手県気仙地方で使われている言葉です。山浦玄嗣さんが新約聖書をケセン語に訳されました。このケセン語で訳された新約聖書が評判を読んでいます。山浦さんによればこのケセン語に愛という言葉はないのだそうです。聖書の中に出てくるギリシャ語の動詞アガパオーを愛すると訳したのは、明治の中頃、キリシタン禁止令が解けて、聖書の翻訳が始まってからのことです。山浦さんはこれが大きな間違いであったといわれます。そもそも愛するとは上の者が下の者を思いやる感情、自己本位的な感情を表していました。ですから対等の相手や、いわゆる目上の人に対しては愛するとはいえなかったというのです。それなのに「神を愛する」と訳した。これがイエスの教え、聖書の内容を分かりにくくしてしまったというのです。

◆ その典型的な例として「あなたの敵を愛しなさい」という有名な言葉を山浦さんはあげています。そもそも「敵」とは「できるならその存在をなくしたいと思う相手」のことです。それを「愛せ、好きになれ」というのはそもそも無茶な要求です。これはギリシャ語のアガパオーを「愛する」と訳したがゆえに起こる誤解だというのです。420年ほど前、日本のキリシタンはアガパオーを「大切にする」と訳しました。ケセン語では「大事にする」と言います。「大切にする」、「大事にする」であれば上下に関係はありません。「主君は家臣を大切にする。大事にする」、「家臣は主君を大切にする。大事にする」、「友だちを大切にする」「神様を大切にする」、すべてに成り立ちます。これがイエスの語った「アガパオー」の本当の意味です。「敵を愛せ、好きになれ」、イエスはそのような無茶なことを求めたのではない。「敵であっても大事にしろ」と言っているのだと山浦さんは言います。敵ですから憎いのです。憎くて当然です。イエスが言いたいのは憎しみを持つな、押し殺せというのではなく、憎い相手に対しても、その相手もやはり人なのだと思って大事にする、排除しないということです。

◆ それはイエスが自分に敵対し排除しようとしていたファリサイ派の人たちに向かって「あなたがたの間に神の国はある」と語ったことに示されている生き方です。イエスという人は人間に対する神の国の徹底した外交官なのだと言えるかも知れません。外交とは意見や立場の違う相手に聞き、相手を理解しようと努めた上で、妥協点を見つけてゆくことだといわれます。人間という異質な他者の言葉を聞き抜き、寄り添い抜いて、共に生きるために必要なものを備え、差し出す、それが「アガパオー」「大事にする」ということです。

2017年2月26日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2017年2月26日(日)午前10時30分
降誕節第10主日
説 教:「神が変わる理由」
牧師 望月修治
聖 書:マタイによる福音書
14章22-36節
招 詞:イザヤ書30章18-19節
交読詩編:107;10-22
讃美歌28、2、235、446、91(1番)

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