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2015年5月31日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.5.31  使徒言行録2:22-36 「わたしの足台」                 

◆ 先週はペンテコステの礼拝を守りました。ペンテコステの出来事、すなわちイエスの十字架の出来事から50日目に弟子たちに聖霊が降ったという出来事は、そのことによって教会が誕生したというよりも、教会の宣教、すなわちイエスが語ったこと、弱い立場におかれた人たちと一緒に生きたこと、さまざまな癒しや働きをなしたこと、そしてそこにこそ神の働きが示されていたことを語り伝えるという活動が開始された、と言った方が正確かも知れません。というのは、使徒言行録の記述を追えば、ペンテコステの出来事が起こった時点で、すでに「神の民の群れ」は存在していたからです。1:15に「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。」と記されています。この人々の集まりをエクレシアすなわち教会と呼ぶならば、時系列でいえば、聖霊はその「神民の群れ」としての「教会」に降ったということだからです。その結果起こったことは、2:12にありますように弟子たちが、天下のあらゆる国から帰ってきてエルサレムに住んでいた信心深いユダヤ人たち、彼らが生まれ育った国々の言葉で、神の偉大な業を語り出したということでした。「神の偉大な業を語る」とは宣教です。教会が内側にではなく、外に向かってイエスの十字架の出来事、イエスの福音を神の偉大な業として語り出したのです。これがペンテコステに起こった出来事であり、それゆえ「教会の誕生」ではなく、すでに存在していた教会が「宣教する教会」として新たな歩みを始めたというのが使徒言行録の記録に即した事の次第です。

◆ 今日の箇所は、そのペンテコステの日にペトロが語った説教が記されています。これは教会で行われた最初の説教です。少なくとも記録として残されている最初の説教です。そこで語られたのはイエス・キリストの物語でした。まず、聖霊降臨によって起こった出来事は旧約聖書の中で預言されていたことが現実に起こったのだとペトロは語り、具体的にヨエルという預言者の言葉を(ヨエル書3:1-5、p.1425)を引用しています。21節に「主の名を呼び求める者」という表現が出て来ます。使徒言行録が書かれた紀元80年代から90年代よりも前、紀元50年、60年頃のパウロが活動していた時代には既に、これは信者を意味する定型句として使われていた表現でした。

◆ 次にペトロが「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いて下さい」と呼びかけて語ったのは、「ナザレの人イエス」とは何者かということです。たたみかけるようにペトロは語っています。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」(22節)「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(23節)「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」(24節)この三つのことがらは、ペトロが語ったというだけではなく、初期の教会、神の民の群れに加わっていた人たちにとって、宣教の骨格といってよいことでした。初期の教会を構成していた人たちは、指導的な立場にあった人も、一人の信徒として神の民の群れに加わっていた人たちも、この証言をブレさせないで語るということにおいて「一つになっていた」のだというのです。

◆ ここで大切なことは、ペトロが語った「メシア物語」の主語は何れも神であるということです。もう一度読み直してみます。まず22節「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたかたに証明なさいました。」、23節「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された・・・・」、24節「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」 このようにペトロはイエス・キリストの十字架・復活・昇天の出来事はすべて神によるものであること、あの惨めな十字架の出来事も含めて全てが神によることなのだと語りました。

◆ しかしもう一方で、イエス・キリストの出来事を語るということは、イエスを十字架に付けた側の私たちの責任が顕わにされ、それと向き合うということが同時に問われることでもあるのです。ペトロの言葉はそのことを明らかにしています。23節です。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」ここでペトロは「あなたがたは」という二人称の言葉を繰り返すことによって、イエスを十字架につけて殺した罪が、まさに説教を聞いているあなたがたユダヤ人にあることを指摘しています。そしてこの「あなたがた」の中からペトロは自分を除外しているのではありません。イエスのことを三度にわたって知らないと言って関わりを否定した自分自身をも含んで「あなたがた」と語っているのです。「イエスを十字架につけたのは、取りも直さずあなただ」という言葉は、誰よりもそれを語るペトロ本人に食い込んでいるのです。

◆ しかしこの言葉は、聞いていた人々に届くのです。37節ですが「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。」とあります。ここで「大いに心を打たれ」と訳されている「カタニュッソウ」という言葉は「悔恨の情が自分の心をさし貫く」ことを意味しています。イエスがなぜ十字架の死を遂げたのか、そしてその後に何が起こったのかをペトロが語り終えた時、それを聞いていた人々は「心を深くえぐられた」のです。それは、自分はどうしたらよいのかを考えさせるような種類の揺さぶりであったことが37節から分かります。人々はペトロや他の使徒たちにその場ですぐに「わたしたちはどうしたらよいですか」と問いかけているからです。

◆ ペトロの言葉が人々に届く、その理由は二つあります。一つは十字架の出来事の主体は神であること、それをペトロが、また他の弟子たち自身がペンテコステの出来事において体験し、語っているからです。いまエルサレムの人々に「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と語っている、いや押し出されて、背中を押されて語らせられている、この姿が神の働きを証しするからです。そしてもう一つは「あなたがた」の中にペトロ自身も含めているからです。語り手であるペトロ自身が自らの責任を告白してそこにいるからです。当事者として語っているからです。自分の体験を通して、自分が十字架の出来事にたいしてどのように振る舞い、どのようにうち崩れ、裏切ったのか、そしてその痛みに何が届けられたのか、それを自分の言葉で語っているからです。自分はどのように受けとめたのかを、聖書を引用し、確かめながらきちんと語っているからです。

◆ 言葉はその人の生き様を通して届くのだと思います。生き方が立派であるとか、整っているとかではありません。本当のことであること、ありのままであること、そういう意味で真実であること、それが人間の言葉に神の働きを宿すための窓になるのだということをペトロの説教から学ぶのです。それが聖霊と呼ばれる天の風が通る道を拓くことなのだと気づかされるのです

2015年6月14日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年6月14日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第4主日 こどもの日合同礼拝
説 教:「神さまにタッチ」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書
  8章43~48節(新約p.120)
招 詞:使徒言行録4章10-11節
讃美歌:27、91(1番)
  こどもさんびか改訂版:19、53,93、2
  こどもさんびか:35「しゅわれをあいす」
※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。また、次週は子どもと大人がともに礼拝をする合同礼拝です。どなたでもお越しください。

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