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2019年8月18日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.8.18 ローマの信徒への手紙12:9-21 「行動の原則」 望月修治    

◆ ローマの信徒への手紙は、新約聖書の中に収録されているパウロの手紙の中で最後の手紙です。言い方を変えれば私たちが今日手にしている、パウロが書き残した7通の手紙(ローマ、コリントⅠ、Ⅱ、ガラテヤ、フィリピ、テサロニケⅠ<最初に書かれた手紙>、フィレモン)の中で、一番新しい手紙です。彼がこの手紙を書いたのは、3回目の伝道旅行を終えた後の、西暦55〜56年にかけてのころ、場所はコリントであったと言われています。パウロはディアスポラのユダヤ人、すなわちユダヤ本国ではない別の土地で生まれ育ったユダヤ人です。だからこそと言うべきかも知れないのですが、ユダヤ本国の人間に対するライバル意識もおそらくあって、彼は熱心なユダヤ教徒として律法の習得と実践に励みました。その熱心さは自他ともに認める徹底したものであり、非の打ち所がなかったと伝えられています。そのパウロがキリスト教会を迫害し、たたきつぶすためにダマスコという町に向かっていた時に、復活のキリスト・イエスとの出会いを体験し、180度方向転換することになったという劇的な回心の出来事についてはよくご存知の通りです。回心後のパウロは、異邦人すなわちユダヤ人以外の人々にキリストの福音を伝えることを自らの使命と受けとめ、小アジアを中心としてギリシア世界にも旅路を広げ、行く先々で教会を設立して行きました。しかしそれらの教会は、成長するにしたがって、さまざまな問題に直面することになりました。そのためパウロは、設立されてまだ年月が浅い教会の牧会者として、それぞれの教会に宛てて手紙を書き、指示や勧告をし、またパウロの伝えた福音に反対する人たちには熱心な説得や反論を試みました。彼の手紙は宛先の教会、あるいはその周辺の教会においても回覧され、おそらく礼拝の場で読まれました。したがってパウロの手紙は彼と、彼が設立した教会との空間的な距離、物理的な距離を埋める牧会的な手段だったのです。

◆ そのような性格を強く持っていたパウロの手紙の中で、今日読んでいますローマの信徒への手紙だけは、パウロが設立に関わったのではない教会、しかもまだ一度も訪れたことのない土地に住む未知なる人たちに宛てて書かれた手紙です。ですから他の手紙が、それぞれの教会が直面していた問題に焦点を当てて書かれた手紙であるとすれば、このローマの信徒への手紙は、パウロの長い間の夢、当時の世界の中心であったローマ、さらにはローマを経てイスパニアに行ってキリストの福音を伝えたいという切なる願いを実現するための地ならし、未知なる教会を訪問するに先立っての自己紹介、あるいはローマ訪問を願う思いの切実さを伝える手紙、言うならば長年の夢の裏書きといってよい手紙です。このあと彼は実際にローマに行くのですが、そこで捕えられ処刑されて生涯を終えました。

◆ ローマの信徒への手紙の主題は1:16-17節に言い尽くされています。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」 これがローマの信徒への手紙のメインテーマです。「福音には神の義が掲示されている」とありますが、「義」と言われると、個人個人の生き方がいかに整っているか、立派に正しく生きているかということをイメージします。しかし、聖書に語られている「義」というのはそのような個人の生き方やあり方を指しているのではなく、関係のあり方をあらわします。神と人との関係が望ましい状態にあること、本来あるべき繋がり方をしている、そういう状態を「義である」と表現します。ヘブライ語で「義」は「ツェデク」あるいは「ツェダーカー」と言いますが、この言葉の語源をたどるとアラビア語の「ツァダーカー」という語に行き着きます。そして興味深いのはこの「ツァダーカー」の意味です。「本当のことを言う」という意味です。本当のことを言える関係やつながりが「義である」というわけです。

◆ パウロはこの主題にそって、キリスト教的生活とはどのように生きることなのかを今日の箇所で語っています。いろいろなことが書いてあります。順にあげていきますと、愛するということは偽らないということだ、お互いに慈しみ、また尊敬し合って生きること、神のことを忘れずに生きること、苦難を耐え忍ぶべきこと、貧しい人を助けたり旅人をもてなすこと、喜んでいる人の喜びを一緒に喜び、悲しんでいる人の悲しみを見過ごさずにその人の傍に留まって慰めとなること、心を合わせておごり高ぶることがないようにすること、自分の知識を盾にとって誇ったりしないこと、いろいろな人との間に平和、安らぎに満ちた繋がりをもって歩むこと、怒りのままに事を運ぶのではなく、神に委ねること・・・それらが信仰を持って生きることの具体的な現れなのだとパウロは記します。むろんこのような生き方や行いは信仰をもつ者だけにできると言いたいのではありません。またこうしなければダメだとか、信仰者として失格だということでもありません。もし仮にここに書かれている通りの生き方をしなければならないのだとしたら、私は信仰に生きているなどとはとても言えません。

◆ パウロがここで列挙していることは、いずれも誰かとの繋がりがどのようであるか、どのようになっているか、ということに関わっているという点で共通しています。偽らないことが愛だということも、互いを慈しみ尊敬することも、旅人をもてなすことも、喜びや悲しみを分かち合うことも、いずれもその人一人のことではなく、自分以外の誰かとどのようにつながっているのかを具体的な例をあげることで問いかけています。

◆ イエスは繋がりに生きることをこんな風に語っています。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられようか。・・・あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、灯をともして升の下におく者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。」(マタイ5:13-14)この言葉はイエスが30歳を過ぎた頃、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)と語って活動を始めた時に語った「山上の説教」(マタイ5-7章)の中で語られた言葉です。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」自分自身が「塩」であり「光」であることに気づきなさいと、イエスは人々に伝えたのです。どのような生き方、どのような繋がり方をすることが「塩」あるいは「光」と見なせるのでしょうか。塩も光もなくなった時、その存在の大きさを痛感します。塩は料理に使われて味を引き立たせます。スイカに振りかけられると甘みを引き出します。病院の手術中に停電したら、患者は命を失う危険すらあり得ます。イエスが語る地の塩、世の光は、自ら目立つのではなく、他者の力を引き出すため、他者を輝かすために光を放つのです。

◆ ある会社で、多くの社員から慕われていた社長が亡くなり、葬儀が行われました。社員たちは深い悲しみに包まれました。社長の親族が、ひとり泣き続ける若い社員に聞きました。「社長は、あなたにとってそれほどかけがえのない、大切な人だったいうことでしょうか?」 「いいえ。社長ではなく『私がかけがえのない存在だ』と彼は教えてくれたのです。あの人の前に立つと、いつも私は『自分を大切にしよう』と思いました。」 「地の塩」「世の光」にイエスが喩えた繋がり方は、出会った人々に「かけがえのない自分の大切さ」という視点をプレゼントします。

2019年9月1日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年9月1日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第13主日
説 教:「言葉の種を蒔く」
      牧師 望月修治
聖 書:ヤコブの手紙1章19〜27節
招 詞:ルカによる福音書13章11〜13節
交読詩編:119;33〜40
讃美歌:28,127,512,536,94,524,91(1番)
第1編323(1番)
◎転入会式、堅信礼、聖餐式を行います。

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