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2019年8月25日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.8.25 マルコによる福音書2章13~17節 「豆を豆腐に」   平松 讓二   

◆ イエスが説教活動を始められた30歳のころ、再びガリラヤ湖畔を歩いていました。そして、湖畔に多くの群衆が集まってきたので、そのまま湖畔で人々に教え始められたのでした。イエスにとってはしばしば、会堂ではなく屋外が教会となり、山の中腹や漁船が講壇となりました。これは、神殿や会堂で、礼拝を守り、教えを受けてきたユダヤ人たちにとっては信じられないことでしたが、イエスにとっては人々が集まるところこそ話をするべきところでした。

◆ これはカファルナウムという町での出来事ですが、このカファルナウムはイエスがガリラヤ伝道の拠点とされた街です。ガリラヤ湖の北西に位置するこのカファルナウムは、この時代人口約5万人を数えたといわれ、通商の中心地でありガリラヤ湖畔で一番栄えていた町といってもいいでしょう。多くの人や物が行き交う街カファルナウムは、通関税を取り立てる徴税所があり、レビはそこで通行税を集める徴税人でした。

◆ 異教徒との接触を嫌った多くのユダヤ人にとって、ローマ帝国などから請け負って税金を徴収する仕事は、当時のユダヤ社会では不浄な者、不潔なものとして扱われ、軽蔑された仕事でした。また、それだけではなく、罪びとと同一視されていました。レビも人々に嫌われ、ユダヤ人社会の中では罪びと扱いされていたわけですが、イエスはそんな他の誰もが近づきたくない人を弟子として求められたのです。レビは決して貧しい生活をしていたとは思えません。他の徴税人同様かえって裕福な生活をしていたことでしょう。それは、イエスの呼びかけ、召命に感謝して祝宴を開いたことからもわかります。この裕福で学識のあるレビはイエスの「わたしに従ってきなさい」という呼びかけの招きに対し、一瞬に、素早い決心によって、彼は徴税人という仕事を永久に捨ててしまったのです。レビは背水の陣を敷き、キリストにすべてをかけました。

◆ 私は基本的に豆が食べられません。小さい時から豆や豆を使った料理を食べることができません。しかし、それが豆腐や納豆の形をしていると何の抵抗もなく食べることができるのです。これは、私たちの人間関係にも当てはめることができるのではないでしょうか。つまり、この人は私とは合わない、嫌いだ、受け付けないといった人が私たちの周りにいるのかもしれません。でも、視点を変えてみると、ちょっとだけその人への見方を変えてみると、私にとっての納豆や豆腐だったりするのではないでしょうか。

◆ レビは、彼の仲間と共に、イエスを彼の家に招待しました。レビにも仕事仲間や友人たちがいたのですが、きっとその友人たちもユダヤ社会の中でははじかれた存在で、人々の軽蔑の対象となっていたことでしょう。イエスは喜んでこのレビの招きを受け入れました。しかし、このイエスの行為は、律法を厳格に守り、自分たちこそ清く正しい人間であると思い込んでいた人々を傷付けました。彼らにとって、穢れた人々と一緒にいること、そのことだけでも罪や穢れにつながるのです。したがって、イエスがレビの家で、彼の仲間と共に食事をしたということは、厳格な律法主義者たちにとっては許されざる行為でした。ユダヤの正統的な慣習を無視した、大事件でした。

◆ しかし、イエスにしてみれば、何も特別なことをしたわけではありません。福音書の記事からもわかるように、これらはイエスが日常繰り広げていた出来事(罪びととともに生きる)のはじまりに過ぎません。そして、これからもずっとそうでした。イエスは群衆たちの「どうして徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」とういう声に対して、はっきりと「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人(律法主義者たち)を招くためではなく、罪びとを招くためである」と言っています。これは、イエス自身の宣教の目的をはっきりとされる宣言にも聞こえます。イエスが「私が来たのは」という「来た」とは、神から遣わされたという意味です。ファリサイ派の人々のように、律法を自分たちの都合のよい解釈で守り、そのことが天国・神の国につながるという考えがはびこっていたこの時代に、イエスは罪びとがそのまま神の国へ招かれると言い切ってしまわれたのです。律法を自分たちの視点からしか見ず、その向こう側に多くの罪びとをつくる社会はおかしいと言い切ったのでした。

◆ 私たちはなかなか日常生活の中で、視点を変えて物事を見ることが難しくなっています。私の豆のように、嫌いなものは嫌いだと思い込んでいることがよくあります。しかし、視点(姿)を変えてみると、いろいろな味に出会います。他者の見えている部分のみが正しいかの錯覚をしてしまうことに気を付けたいものです。イエスがどこに立たれ、誰の立場に立たれ、誰と共に生きようとしたのかということを、今一度私たちの歩みの原点としてみたいものです。私たち自身がファリサイ派や律法学者になっていないでしょうか。私たちの一方的な見方で、ユダヤ社会の罪びとをつくり、排除していないでしょうか。イエスと共に、主の食卓に交えていただきたいものです。私たちの罪を、主の食卓でイエスに許していただきたいものです。

2019年9月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年9月8日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第14主日
説 教:「あなたは何を気にしますか?」
      牧師 望月修治
聖 書:ローマの信徒への手紙14章1〜9節
招 詞:出エジプト記23章12〜13節
交読詩編:94;12〜19
讃美歌:29,209,453,438,91(1番)

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