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2019年9月1日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.09.01 ヤコブの手紙1:19-27 「言葉の種を蒔く」 望月修治

◆「自分が/この着物さへも脱いで/乞食のようになって/神の道にしたがわなくてもよいのか/かんがへの末は必ずここへくる」 八木重吉の「神の道」という詩です。22節に「御言葉を行う人になりなさい。」とありますが、聖書がこう生きよと提示する生き方、神が求めている生き方を自らの生き方としなければと思いつつ、しかしそこに決して徹しきれない自分の現実との葛藤、御言葉に誠実であろうとするがゆえに彼の中に起こらざるを得なかった葛藤をうたった詩です。

◆ 本日の聖書日課はヤコブへの手紙ですが、この手紙を読んでいますと、そうした生身の自分の姿を突きつけられるようで、うつむくしかない気持ちになります。例えば、こんなふうに語れられています。「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。」(1:26)「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。」(2:19-20)「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。」(3:9-10)「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(4:3) 一つ一つ思い当たります。そんなことは自分にはないとは言えない。自分の貧しさ、破れ、未熟さ、至らなさ、そして小ささを自覚させられもする。しかし、そこで立ち止まってしまうとこの手紙は理解できないと思いました。ポイントは「御言葉を聞いて行う人になりなさい」という場合の「御言葉」つまり神の思いとは何なのかです。

◆ そもそもヤコブの手紙とはどのような手紙なのでしょうか。手紙の冒頭に次にように記されています。「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している12部族の人たちに挨拶します。」この手紙の著者は自分のことを「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と紹介しているのですが、このヤコブとは誰のことか。新約聖書には何人かのヤコブが登場しますが、その中の誰かというのではなく、初代教会の中で権威をもっていたであろうイエスの兄弟ヤコブの名を借りて書かれた手紙だというのが定説です。書かれたのは、紀元60年代から90年代にかけての頃だと考えられます。ヤコブの手紙は、教会の人々が、神の意志に従うことよりも、世俗の価値観の方を優先させ、信仰者として本来あるべき姿を失っていることに対して警告することを目的として書かれた手紙です。

◆ 今日の箇所には、そのことが二種類の人間の姿として描かれています。しかしそれは、二種類の異なった人間がいるというよりも、同じひとりの人間の中に存在している、しかも全く対極に位置していると言ってよい姿として描かれていると読むことができます。それをこの手紙は「心が定まらない」という言葉で表現しています。1:8「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人」、そして4:8には「心の定まらない者たち、心を清めなさい」とあります。「心が定まらない」と訳されている言葉(ディプシュコス)は「二心をもつ」というのが元々の意味です。口語訳聖書では1:8も4:8も「二心の者どもよ」と訳しています。人がもつ「二心」、それは、今日の箇所の言葉で表現するならば、例えば21節「心に植え付けられた御言葉」と「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」とが同じ人の心の中に混在していること。あるいは22節、23節、「(御言葉を聞いて行う)信仰」と「(御言葉を聞くだけで満足してしまう)信仰」とが私たちの中に混在しているという現実として挙げられています。

◆「御言葉」とは、少し噛み砕いて言えば、イエス・キリストの生き方、イエスが何を語り、何をなし、そして歩んだか、その全体を通して示された命の用い方、生き方ということです。そして「御言葉を聞いて行う」とは、イエス・キリストの教えや生き方をながめて感動しました、感銘を受けましたというだけでなく、自分もイエスの示した生き方に倣って歩もうとすることです。

◆ イエスはどんなふうに生きたのか。聖書に記されているイエスの物語を読んでいて思い浮かぶことのひとつは、イエスという人はユダヤの律法をよく破ったということです。ユダヤの人々の生活は律法という掟に従うということが前提とされていました。イエスはその律法の枠をしばしば踏み越えました。例えば安息日、すべての労働が禁じられていたその日に、病気の人を癒したり、あちこち遠くまで出かけたり、麦の穂を摘むという労働をすることも気にかける風もなく行ったりしました。また罪人と見なされた人たちと一緒に食事をしたり、語らったり、触れ合ったりすることも、イエスにとって日常のことでした。罪人たちと触れ合うことは汚れることだと見なされていたユダヤ社会で、そのイエスの振る舞いは常軌を逸すること、神を冒涜することと見なされる生き方でした。イエスは律法に無頓着であったのか、いい加減であったのかと言えば、それは違います。律法(トーラー)とは、神の意志を指し示すというのが本来の意味です。神の御心に従う、神の意志を大切にする、それはイエスの生き方の基盤でした。マタイ福音書7:17には、イエスが「わたしが来たのは律法や預言書を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と語ったと記されてもいます。

◆「律法を完成する」すなわち「神の御心に従う」とはどのような生き方であったのか。そのことを示す出来事がマルコ福音書7章に記されています。イエスの弟子たちが、食前に手を洗わなかったことで、当時の指導者たちが厳しくイエスと弟子たちを批判したという出来事です。次のように記されています。「ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』」(マルコ7:5)この批判に対してイエスは次のように応えました。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」(7:14) ここでイエスが問題にしたのは「人から出て来るもの」、つまり人のあり方そのものです。ファリサイ派や律法学者たちが、食前の手洗いに熱心だったのは、決して衛生上の問題ではありません。彼らがこだわっていたのは「汚れ」の問題です。だからイエスはここで「人を汚す」ものについて語っているのです。食前に手を洗うのは、汚れた者たちとの関わりを断つという証しでした。手にとどまらず、「市場から帰ったときには、身を清める」ことも行っていました。外出し、市場など不特定多数の人々と接することは、汚れた人と接触した可能性があるから、とにかく手を洗い、身を清めたのです。そうすることで「汚れは自分とは無関係である」、「自分は清い」ということを証明しようとしたのです。「手洗い」は「縁切り」「絶縁」のしるしでした。しかし、イエスは、この「人を分断する手洗い」を拒否したのです。「自分たちは決して手を洗わない」と宣言したのです。それは「縁を切らない」という宣言です。手を洗わないで食事に臨むこと、それは排除された人たちと一緒に生きる姿勢そのものでした。それこそが、イエスの示した「福音」であり、神がイエスを通して示した生き方でした。

◆ 神は、自分の貧しさ、小ささ、破れを自覚して立ち尽くす私たちに寄り添うのです。「そのあなたの傍にいるよ」と約束するのです。そのとき人は救いを体験するのです。救われたと実感できるのです。そしてそこから歩み出していくのです。それが「御言葉を行う」ことの基本であり、中身です。

2019年9月15日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年9月15日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第15主日
説 教:「語り部が生まれる」
      牧師 望月修治
聖 書:コリントの信徒への手紙Ⅱ11章7〜15節
招 詞:ルカによる福音書14章10〜11節
交読詩編:31;20〜25
讃美歌:24,155,513,448,91(1番)

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