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2021年7月4日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2021年7月4日(日)
聖霊降節第7主日
説 教:「すべての人々のために」
    牧師 髙田 太

聖 書:テモテへの手紙I 2章1〜8節
招 詞:詩編143編 9〜10節
讃美歌:28、528(1・2節)、405(1・3節)、91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※各学校で配布されているメールアドレスでは、セキュリティー的にこちら側からのメールをお送りできない場合があります。そのため、gmail、yahoo mail、などのメールアドレスをお送りくださりますと助かります。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

2021年6月27日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2021.6.27 マタイによる福音書6:22-34 「思い悩むな」 大垣友行   

◆ 先月半ばから今月頭まで、教育実習に行かせていただいていました。岩倉にある同志社中学校の聖書科です。わたしは京都市立の中学校を卒業しましたが、もちろん、母校には聖書科がありません。ですから、学内校にお世話になることになりました。学内校といっても複数ありますが、わたしは同志社中学校を希望しました。昨年度、同じように、そこで実習を経験した神学研究科の友人が、勧めてくれたことがきっかけでした。彼も同様に公立学校の出身で、聖書科の授業ってそもそもどんなものだろう、というところがスタートでした。現場での実習を経て、そうしたイメージを持つことができたということでしたので、わたし自身も、実は教育実習そのものを諦めようとしていた時期もあったのですが、それに意を強くして、鍛えていただこう、と思い直したのでした。

◆ わたしが担当させていただいたのは、中学1年生と3年生でした。1年生は新島襄について学びます。3年生は新約聖書です。授業の準備を進める内に、わたしは新島について熱心に学んでこなかったのですが、次第に自分の中で、新島の姿が具体性を伴って、描き出されるようになってきました。とりわけ、若き日の新島の志の壮大さと、それを支えた彼の身の回りの人々とのつながりに、何か大切なものを伝えてもらった、という気がしています。神様から新島に与えられた、賜物の大きさに改めて驚かされました。

◆ 本日の聖書箇所は、山上の説教の一部です。ご承知のように、山上の説教は、実に多様な教えを含んでいます。本日の箇所は、先行する箇所と関連して、富に対してどう向き合うか、ということが主眼に置かれている、ということができるように思います。これを要約すれば、現世的な富というものは、あくまでも、現世的なものにすぎない。そうしたものを求めるのではなくて、むしろ天上の富を求めるほうがよい、ということになるでしょう。

◆ もちろん、現世的な富なしには、おそらく人は、日々の生活を営んでゆくことはかなり難しいと思います。実際に、そうしたものから離れようとして生きる人々もいるわけですが、この社会全体が、とりあえずは富に支えられて存在しています。何らかの社会的な関係から無縁でいることはできないでしょう。ですからその意味で、富と無縁のまま生きている人も、また存在し得ないと思います。

◆ ここで戒められているのは、金銭に執着すること、それに囚われた目で、自分の生活についてあれこれ思い悩むことです。金銭との関わりそのものではなくて、金銭に目がくらむことや、金銭が自分の人生の尺度になってしまうこと、そうであってはいけない、と言われているのだと思います。

◆ なるほど、現代の快適な生活の一切は、富によって支えられています。しかし、そのことをもって、自らの生きる道を割り切ってしまってよいのでしょうか。そうではなくて、もっと適切な距離感をもって、富に向き合うことはできるのではないでしょうか。わたしたちは、それぞれの事情や背景にしたがって、様々な困難を抱えています。またあるいは、そこまでいかなくても、漠然とした悩みや不安といったものに取り巻かれています。そうしたものから自分を守ろうとして、わたしたちはあれこれ対策を整え、思い巡らせます。そうした営みは、決して無益なものではないと思います。

◆ ですけれども、本当に難しいことは、わたしたちは、地上での命だけを思いやっているわけにはいかない、ということです。まさに、人はパンのみによって生きているわけではないのです。神様の御心にしたがって、この地上での命を力強く生きることとともに、神様のみもとに迎えられたあとのこと、それをも心の内にしっかりととらえて、歩む必要があるわけです。そうであるならば、富を追いかけることを、また、あれこれ思い悩むことを、どこかでストップして、あとのことは神様にお委ねしてみる、そういうこともできるような気がしてまいります。澄んだ目で、天上での命に思いをいたすことができるならば、富との向き合い方は、きっと適切なものになってくるはずなのです。

◆ 再び、自分自身の話に戻って恐縮なのですが、ある意味、これと同じような経験を、教育実習で、また、まさにこのように、伝道師として働かせていただくなかで、積ませていただくことができたように思っています。

◆ といいますのは、これまでわたし自身は、富についてではないのですけれども、自分は明日何をしようか、またするべきなのか、定かに分からない、ということで、しばしば苦しんできたところがあるのです。富を賜物と読み替えたということになりますが、自分の乏しい賜物をしみじみと眺めてはため息をついて、ほとんど何もできない、ということに、自分でがっかりしていました。しかし、そうしたことは、自分のために備えられたものに目を向けず、日々の細やかな努力を払うことなく、ただただ、何かしら意味のあることに取り組みたいという、いわばわがままな、自分勝手な思い込みにすぎなかったように思います。今にして思えば、自分の賜物と、それに見合った働きとは、どのような時であっても備えられるはずです。しかし、これまでは、そしてまた、実習に行く前は、また伝道師になる前は、自分にそうしたことがつとまるだろうか、という不安に苛まれていました。備えられている恵みを受け取ることができなかったのです。しかし現実に、現場に飛び込んでみた今は、十分な働きができているとは言えないのですけれども、神様が備えてくださった恵みを受け取ることができている、と感じています。さらに言えば、これまで、ただ何もせずに悩んでいただけの時でさえも、自分の賜物と、それに見合った時が与えられていたんだ、という気がしています。よいことも悪いことも、その時その時に与えられる神様の恵みなのだと思います。

◆ このように、各人各様に与えられた賜物にしたがって、働きの場も与えられる、ということ、神様に思いを向けて生きることで、過不足なく、その恵みに応えてゆくこと、このことが求められているように思います。そして、教会という共同体は、そのようにして生きる人々の集まりなのだとも思います。持っている関心も、背景もそれぞれに異なっている、皆さまお一人お一人が、この同志社教会という場において、それぞれに、神様から定められた働きを担っておられるわけです。聖書はまた別の箇所で、自分の持っている富を分け合うことを教えています。そのことはまさに、人々が自分の賜物を持ち寄って、共に働き、お互いに思いやることを勧めているのだと思います。

◆ わたしたちは、自分のためだけでなく、他者のためにも、日々あれこれ思い悩みます。しかしどうか、どこかでその悩みにブレーキをかけて、神様にその思いを委ね、日毎の歩みを静かに重ねてゆきたいと思います。

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