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2015年5月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年5月10日(日)午前10時30分
復活節第6主日
説 教:「隊長の使い」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書
  7章1~10節(新約p.114)
招 詞:テサロニケの信徒への手紙Ⅱ
3章3-5節
讃美歌:26、207、58、408、91(1番)
交読詩編:34;2-11(p.35下段)

2015年4月26日(日)の説教要旨 [説教要旨]

先週の説教要旨2015.4.26   ヨハネによる福音書6:34-40 「天のパン屋」          

◆ ヨハネによる福音書6章には、食べ物に関する議論や出来事が語られています。今日の箇所には、ガリラヤ湖の東側から、対岸のカファルナウムの町へと移動したイエスの後を追って来た人々とイエスとの間で交わされたやり取りが記されています。福音書記者のヨハネは、イエスの言葉を聞いた者が、その言葉を誤解することによって、その場面における出来事やイエスが語った言葉の意味、あるいは主題を明らかにするという手法をよく用います。6章でも、27節で「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とイエスが語ったことを、「いつまでもなくならない不思議なパン」だと人々は誤解して「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と求めています。これに対してイエスは「わたしが命のパンである」と告げて、「永遠の命に至る食べ物」「天から降って来て、世に命を与えるパン」とは、家庭で焼くパンではなく、心の糧となるパンのことであること。そして「神のパン」、天のパン屋で焼かれるパンとは、イエスのことであると語ったというのが今日の箇所に記されている内容です。

◆ 人が生きていくためには二つの食べ物が必要です。ひとつは肉体を養い、支え、育てる食べ物、毎日の食事です。そしてもうひとつは心を養い、支え、育てる糧、心が食べる食べ物です。慶応義塾大学医学部小児科講師の渡辺久子さんが「抱きしめてあげてー育てなおしの心育て」という本を書いておられます。その中で「心の分娩は三年かかる」と強調しておられます。この世に生まれ出た乳児は、羊水の中の安心感からすぐに脱け出せるわけではない。母親に抱きしめられることを、いわば羊水に替わるものとして求める。心の発達のためには、そういう愛着関係が少なくとも三歳児まで必要だというのです。

◆ 「命のパン」とは「永遠の命に至る食べ物」のことであり、それこそわたしが「あなたがたに与える食べ物である」とイエスは語ります。人間は「永遠」を長さでとらえ、それを手に入れるべく不老不死の手だてを探しました。イエスは同じ「永遠」という言葉を用いながら、命の質を語りました。長さではなく、どのようなつながりの中に命を位置づけるか、それこそが大切なのだと語るのです。人は生まれた時から、いやそれ以前にひとつの命として母の胎に宿った時から、いろいろな形での出会いとつながりの中に置かれて生きていきます。そしてそのひとつ一つの出会いを通してさまざまなことを学び、養われてきました。優しさ、いたわり、慰め、励まし、和らぎ、そして温もり・・・目には見えませんが、しかし私たちが生きていく上で欠くことのできないもの、すなわちお金では買えないさまざまな心の用い方、命の使い方を、私たちは多くの出会いの中で与えられ、学び、養われてきました。神の働きは、このような出会いを作り出すこととして示されるのです。人が人と出会ってつながりを作ると、そのつながり通して神は自らの働きを啓示する。私たちに、どのような神であるのかを示して下さる。そのようにして与えられる神の働きをイエスは「命のパン」という表現で語りました。これが命のパンだというものが、誰が見ても分かるようにそこにあるというのではありません。その時そのときの状況の中で届けられるもの、相手を生かしたい、そういう願いの中で紡ぎ出され、届けられていく言葉や仕草、あるいはひとつの歌が「命のパン」となるのです。

◆ 「わたしは命のパンである」・・・・イエスがこの表現通りに実際に語ったことがあったのかどうか、それは分かりませんけれども、しかし、少なくとも「命のパン」と言い表されていること、またそれがどれ程、生きることにとって必要であり、大切であり、また命をあたたかく包み込む温もりであるかを、しみじみと味わった人たちが、イエスと出会った人々の中に少なからず確かにいたのです。イエスは、わたしがパンを与えるとか、パンについて思いをめぐらすとか、パンについて議論しようと言ったのでありません。イエス自身をパンだと語りました。つまりイエス自身を食べるということになります。「聖書に生きた人はみな聖書を読み捨てたのではなく、食べかみ砕いて生きた。聖書は読むものではない。食べるものである。」と語ったのは旧約学者の左近淑さんです。紀元前8世紀に活動したエレミヤという預言者も言葉を食べる喜びを語っています。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です。」(15章)言葉を食べると表現される踏み込み方を私たちがするとすれば、それは深い気付き、深い納得が、乾いた喉を冷たい水が潤すように、心の中に広がって行くのを感じるときであろうと思います。

◆ 月報4月号に「送別会ディーライト」と題してイフェ・サムズさんが寄稿して下さっています。イフェさんは昨年9月にアメリカのニューヨークから留学生として同志社大学に来られ、同志社教会の礼拝に出席して下さって、八ヶ月間、わたしたちと一緒に過ごして下さいました。3月29日に同志社教会では、イフェ・サムズのために送別会が開かれました。実はこの日の朝、イフェさんにはとても辛いことが起こっていました。アメリカに帰ってニューヨークの大学の音楽科のコースの大学院に入学するための手続きをしておられたのですが、それが不合格であるという通知を、この日の朝イフェさんは受け取ったということを月報の文章に書いて下さっています。ありうることではあるけれども、非常にショックを受けてしまった。不安が心の中に溢れて、「なぜ?」や「どうしよう?」と考えながら、教会に行く準備をしておられたのだそうです。そのような心の状態を抱えたまま送別会に出席しておられました。最後に、イフェさんは、ご自分が作詩・作曲されたオリジナル曲の「You Are My Friend」をソロ演奏し歌って下さいました。この曲は神様に対して、「あなたは私の友達だ」とうたう歌です。この歌詞を歌い出したら、私が忘れていた神様の優しさ、神様の岩のような安定さ、そして私の物、又は私の経験が全部神様にいただいたことだと一気に思い出しました。神様が私の不安を号泣の涙と同時に思い切って体から出してくださいました。神様は「辛い経験があっても、私はまだあなたと共にいる」ということを私に見せてくださった、とイフェさんは言います。

◆ 昨年の9月、イフェさんがはじめて同志社教会の礼拝に来て下さった日、礼拝が終わった時点では、もうこの教会には来ることはすまいと思われたのだそうです。でも柴田野ゆりさんが声をかけてくれて、話しをしてくれた。その出会いがあって、イフェさんは同志社教会に引き続き来ようと思って下さった。そしてこの8ヶ月、私たちと一緒に歩んで下さいました。こどもの教会ではバイオリンで演奏もして下さいました。歌も聞かせて下さいました。第2水曜日のぶどうの会では一緒に礼拝をし、食事をし、語り合って下さいました。この8ヶ月は神様がわたしたちに与えて下さった命のパンの時だったのだと思いました。昨年の9月、柴田さんがイフェさんに話しかけてくれた、これもまた神様がイフェさんに備えて下さった命のパンだったのだと思いました。命のパンというのは、このようにして私たちを出会わせ、生かし、そして希望に進む道を示して下さる神様の働きのことなのだと思います。そしてその命のパンをあなたたちと一緒に味わうために私は来たのだということ、それが「わたしは命のパンである」というイエスの言葉の意味なのだと思っています。

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