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2021年12月26日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マタイによる福音書1章1〜12節 「その星を見て喜びにあふれた」 大垣友行

◆ 本日与えられました聖書箇所は、福音記者マタイによって描かれた、御子イエスの誕生にまつわるエピソードです。わたしたちは、この物語の流れをよく知っているだけに、なるほど、そういうものかと納得して、物語の先へと読み進めたい思いにかられるのですが、実はこの箇所では、わたしたちにとって本当に大切なことが示されております。降誕節の歩みの始まりに際しまして、そのことを皆様とご一緒に確かめたいと思います。

◆ まずはベツレヘムという土地のことです。マタイはミカ書を引いて、ベツレヘムからイスラエルの民を導く者が現れる、ということを語っています。当時ユダヤ人たちの間でも、ミカ書が根拠になって、メシア誕生への期待が広がっていたといたからです。さらに、この引用のすぐ後に、サムエル記下5章2節からの引用が付加されております。それはイスラエルの全部族がダビデのもとを訪れ、ダビデに彼の使命を告げる場面なのですが、このように言われています。「わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる」。マタイは、自らの福音書の冒頭に、イエス・キリストの系図を置いております。それが何のためであったかと申しますと、イエスが他ならぬダビデの系統に属しておられることを示すためでした。このことを思い出しますと、この2章のエピソードでも、マタイはイエスとダビデの関係を語り、読者の注意を引こうとしていることが分かります。

◆ そして占星術の学者たち、口語訳では「博士たち」ですが、ギリシャ語では「マゴイ」、単数形では「マゴス」となっております。彼らは「東の方」から来たと言われていますが、これは、地中海世界から見て東にあるペルシャに起源を持つ宗教、ゾロアスター教の神官を意味しております。彼らは占星術の他にも、天文学、薬学、魔術、夢の解釈、そして神的世界と人間との間を取り持つ技術などに精通しており、まさに古代世界の知識人だったのです。そのような占星術の学者たち、魔術師たち、その彼らが、全く宗教を異にするユダヤ人たちの「王としてお生まれになった方」のもとを訪れ、拝みに来たのです。それにしても、このよく知られた物語がここで語られているのは、どういうわけなのでしょうか。このエピソードは、四つの福音書の中ではマタイ福音書にだけ見られるものです。ここでマタイは、当時の知的権威を引き合いに出して、彼らにイエスが「ユダヤ人の王」であることを証言させているわけです。これは一種の権威付けということになります。ですが、それだけなのでしょうか。

◆ わたしたちにとって本当に大切なことは、イエスのもとを最初に訪れ、ほめたたえたこの人々が、異邦人であったということです。宗教を異にする人々が、イエスのもとを訪れて拝む。この例外的な事態は、ユダヤ教という一つの枠組みを超える何かが始まろうとしている、ということを示しています。マタイは、マルコ福音書を下敷きに、異なる資料を用いて、自分なりにイエスにまつわる物語を仕上げました。彼が伝えようとしたことの一つは、まさに枠組みを超えること、神の働きはユダヤ人という一つの枠の中だけではなくて、異邦人にも分け隔てなく広がるというそのことでした。

◆ このようにして、マタイはイエスがメシアであること、そしてその働きはすべての民に及ぶということを語っています。そして、その語りが差し向けられたのは、まずは同時代のユダヤ人たちに対してでした。彼らに対して説得力のある説明をするために、マタイはしばしば旧約聖書を引用したのですが、その引用の仕方は、かなり自由なものであったと言えます。ユダヤの知識人からすれば恣意的なものでさえありました。ある意味では自分の主張を正当化するために、無理やりな引用を行って、こじつけをしている。そのような見方もできると思います。ですが、ここで一つの真理が歪められてしまっているというよりは、マタイが受け取った真理を、彼自身が彼自身の仕方で語り直そうとしている、というふうに理解することもできると思います。わたし自身は、どうしてマタイがこんなふうに語ったのか、語らざるをえなかったのか、というところに関心を持ちますし、彼の手腕によって仕立て上げられた一つの物語に、やはり共感を覚えます。ともあれ、ここに限って申しましたら、ベツレヘムからイスラエルの指導者が出る、という核心的なメッセージそのものは損なわれていないと考えられます。ユダヤ人たちは、聖書を「正しく」読み解き、メシアの誕生を期待していたわけですが、結局のところ、イエスがそれだと認めることはありませんでした。

◆ ところで、ベツレヘムにやって来た学者たちの旅路は、どのようなものだったのでしょうか。彼らは「東方」で、イエスの誕生を示す星を見いだしたといいます。そこから旅を始めたと考えますと、その道のりは相当な長さになるということになります。たとえば今のイラン、あるいはアラビア半島からベツレヘムまで、実に二千キロ前後の距離があります。徒歩で、あるいはラクダに乗って、おそらくは一か月あまりの時間がかかったものと推測されます。その間にも、星が彼らを導いたことと思います。彼らはついに、生まれたばかりのイエスを拝むことができました。マタイの意図として、福音の働きは異邦人にも及ぶということがある、とすでに申し上げましたが、学者たちは本当に、この赤ん坊が自分たちにも救いの働きをもたらしてくれるものと信じてやって来たはずです。そうでなければ、導く星をみつけて「喜びにあふれた」はずはなかったと思うからです。

◆ ところで、この学者たちのエピソードが、イエスの権威付けのために用いられたということは、すでにお伝えいたしました。それなら、そういうものとして受け取っておけば、それで済むでしょうか。ここで語られている学者たちの喜びは、実際に経験されたものではないのだから、真剣に取り合う必要はない、ということになるでしょうか。たしかに、今日のこのエピソードには、そういう側面があります。ですが、物語に深く没入して、そこに書かれている出来事を追体験することは、そう望む限り、誰にも許されていることだと思います。イエスのご降誕の物語に耳を傾けるこの時、わたしたちもまた、いわば学者たちの一人として、お生まれになった御子のもとをたずね、限りない喜びをもって、礼拝することが許されているのです。

◆ わたしたちもまた、学者たちがそうであったように、わずかな星の光をたよりに、暗闇の中を日々歩いています。これまでの道のりもそのようなものでしたし、今はコロナ禍のただなかにあって、ますます闇は深くなっているように思えます。それでもわたしたちは、それぞれに神様から与えられている賜物を大切にし、それを活かし、日々のつとめに励んでいます。それぞれに与えられた働きがあります。そうした働きに邁進し、少しずつ経験を積み重ねていきます。そのこと自体が助けになって、日々の歩みを少しずつ進めてゆくことができているのだと思います。とはいえ、そうした営みには、なかなか終わりが見えてこない気もします。

◆ だからこそ、わたしたちには、学者たちが見つけたひときわ明るい星が必要だと思います。行き先の分からない日々の歩みに疲れた時、心からの安らぎを覚え、休息できる場所があったとしたらどうでしょうか。そしてまた、その場所は、何千キロも離れたところにではなく、もはや間近にあるとしたらどうでしょうか。聖書の言葉を通して、わたしたちにも神の恵みの働きが豊かに及んでいることを知る時、まばゆい星が今も輝いていることを知る時、わたしたちの心もまた、喜びにあふれはしないでしょうか。もしそうならば、わたしたちも日々の迷いを振り切って、御子のご降誕の出来事を覚え、喜びをもって、御子をたたえることができるはずだと思います。

◆ わたしたちの日々の歩みも不安に満ちたものですが、御子イエスも、苦難に満ちたご生涯を歩まれたことを思い出したいものです。ご降誕の出来事をスタートとして、イエスの歩みに沿った、教会の歩みも始まっていきます。わたしたちの歩みがイエスと共にいつもあるように、神様のお導きを祈りたいと思います。

2022年1月9日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年1月9日(日)午前10時30分
降誕節第3主日
説  教:「あなたを奴隷の家から導き出した神──コロナ禍から見えてきたこと」
同志社大学神学部教授・神学部長 小原克博
聖  書:出エジプト記20章1〜11節
     ヨハネによる福音書8章31〜34節
招  詞:詩編96編1〜2節
讃 美 歌:29,463(1・3節),510(1・4節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
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※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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