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2019年12月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年12月8日(日)午前10時30分
降誕前第3主日
説 教:「羊飼いを探せ」牧師 望月修治
聖 書:列王記上22章6〜17節
招 詞 : ペトロの手紙Ⅱ 1章18~19節
交読詩編:147;1-9
讃美歌:25,127,231,237,91(1番)
◎同志社大学学生聖歌隊による賛美があります。

2019年12月1日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.12.1 イザヤ書52:1-10 「わが名は『見よ、ここにいる』と言う」 望月修治  

◆ 同志社教会の創立記念日はアドベントの始まりと重なります。新島が同志社の教育の根幹に据えたのは、自由教育と自治教会でした。この二つを車の両輪とすることによって教育を行う、それが同志社の教育の根っこです。真理を学ぶことと並んで大事なのは、それを深く広くそして豊かに用いる心を育てることだと新島は考えました。同志社の根幹にあるのはキリスト教です。キリスト教を抜きにして学園同志社144年の歴史は語れないのです。そして、この同志社という共同体における同志社教会の立ち位置は「自治教会」という車輪です。真理を豊かに用いる道、その方途を、キリスト教を基盤として示すという使命、任務を同志社教会は神から託されているのです。

◆ 新島がこの志を定めたのは、ボストンで学び、体得した一つの聖書の言葉によっていると思います。「神は独り子を世に与え給うたほどに世を愛された」(ヨハネによる福音書3章16節)です。その経過は次のようになります。1865年7月にボストンに入港し、10月にハーディー家に「養子」として迎え入れられた新島は、下宿先のヒドュン家でアンドーヴァー神学校の神学生のフリント夫妻から家庭教師と共に聖書の手ほどきを受けました。そこで新島は人生にとっての基盤となる聖書の箇所に出会うのです。それが「神は独り子を世に与え給うたほどに世を愛された」です。この聖書の言葉は新島のこころに落ちました。キリスト教を体得するという実感を心深く抱く瞬間が訪れ、聖書との本格的な出会いが始まりました。この言葉は終生、新島を支え続けるのです。

◆ 「神は独り子を世に与え給うたほどに世を愛された」この言葉は、聖書の言葉の小さな断片にすぎません。しかし断片の中にこそ普遍があるのです。ひとつの気づきを通して真理に出会うということが起こります。井戸を掘ることに譬えたら分かりやすいかもしれません。地中に向かって井戸を掘っていった時、地下水脈に行き当たるとそこから地下水をくみ上げ飲むことができます。ひとつの気づきが真理に達する井戸となり、そこから生きることの方向を定める基盤となるものを見出した、イエスの言葉を借りるならば「いのちの水」を飲んだと納得する体験が生まれます。

◆ なぜこの聖書の言葉が新島のこころに落ちたのか。フリント夫人からこの言葉を解き明かされたとき、新島は思い起こしたのではないでしょうか。日本を脱国してボストンにきてから出会ったすべてが与えられたものであるということを思ったのではないでしょうか。その体験が身にしみていたからこそ、「神は独り子を世に与え給うたほどに世を愛された」という言葉が深く新島の心に届いたのだと思います。自分が体験している一つひとつを与えてくださったのは神だという深い納得が新島を包んでいったのではないでしょうか。納得というよりも衝撃であったというべきかも知れません。

◆ ボストンの8年間の中で、新島はこの言葉のさらに深い意味に気づくのです。その気づきを促したひとつはやはりフリント夫妻です。夫フリントをよく知る人が彼の特徴を5つの単語に集約しています。聖書、祈り、安息日、与えること、節制、この5つです。この中で「与えること」については「神から受けたものに応じて、喜んで神にお返しすること」と補足されています。このことを新島はフリント夫妻から教えられたはずです。そこで「与えること」の大切さも深く学び、神から「与えられた」からこそ、喜んで「お返し」できる、ということが理解できたはずだと思います。「受けること」と「与えること」は表裏一体の関係です。新島は自分が「受けた」恵みが大きい分だけ、今度は人に「与える」ことを喜びとするようになります。ボストンで新島は「会衆派ワールド」の人たちから、何の見返りも求められることなく多くのことを与えられました。人一倍、愛された新島、大切にされた新島は、人一倍、他者を愛する人、他者を大切にする人になりえるのです。この深い体験は、同志社につながっていくのです。日本にキリスト教主義の学校そして自治を旨とする教会を設立し、それを両輪として世に証しをなすという志の基となったのだと思います。

◆ さて本日待降節に入って最初の主日の聖書日課は旧約聖書のイザヤ書52章1節以下です。第二イザヤと呼ばれる無名の預言者、紀元前6世紀に捕囚の地バビロンで活動した預言者の言葉が記されています。7節に「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」とあります。「足が美しい」と言っています。それは、その足が「「良い知らせを告げる者の足」だからというのです。良い知らせ伝える者」とは、例えば戦いに勝利したことを知らせるために祖国に向かって走り伝える人のことです。。彼らは一刻も早く良い知らせを伝えるべく選ばれた人たちでした。その際に求められたのは速い足であり、強い足でした。ですから知らせを伝える時の彼らの足は汗とほこりにまみれ、傷だらけの真っ黒な足だったはずです。けれども、その足が「良い知らせを伝える」足であるかぎり、それは美しい足なのです。

◆ 「美しい」と訳されている言葉は、もともとは「時にかなう」という意味の言葉です。コヘレトの言葉(p.1037)3:11に「神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」とあります。口語訳聖書では「神のなされることは皆その時にかなって美しい」とありますが、神のなされることこそが美しいのであり、この神のなされる美しいことを告げ伝える足こそ「いかに美しいことか」と称えられているのです。

◆ この箇所が待降節の最初の主日の聖書日課としてあげられているのは、第2イザヤが「いかに美しいことか」とのべていることの根底に神の働きを待つということが含まれているからです。信仰において大切なのは「待つ」ということです。それは人間が自分の判断を優先させて、神の働きを邪魔しないこと。捕らわれ人としての自分たちに、今はまだ具体的には何ら手をさしのべて下さっているとは思えない神を好きだとか嫌いだとか、ということを抜きにして、神の働きを待つ、いや正確には神が働いてくださっていることが分かる形で表されるのを待つ、それが信仰なのだということです。心の中に何かをたくさん蓄えて信仰を養うというのではなく、むしろ心を空けて、素朴に神の働きかけを待つという備えが出来ていくときには、神は思いもかけない形で来たりたもうのだということが、捕囚の地に生きる人たちに「いかに美しいことか」と語りかけた預言者の思いの根底にあったことなのだと思います。

◆ 私たちのお互いの関係に何か意味深いことが起こるとき、それはこちらの側の能力によるのでも、相手方の力によるのでもなく、また両者の力が合わさることによってでもなく、それらを超える何者かの力が共にいる人たちの上に働いたからだと思わせられることがあります。人はとかく自分の言葉や業や能力に依り頼んで生きようとしています。ですからそれが破れたり、失敗すると、挫折感に打ちひしがれます。真面目な努力家であればあるほど、この危険は大きいのです。しかしわたしたちと共にいて下さって、人間を背負って下さるのは神です。その神の働きを美しいと感じ、味わい、受けとめるために聖書が提示するのは「待つ」ということです。待降節は「待つ」という、信ずる者にとって一番基本となる姿勢を取り戻し、味わい直す時として備えられている期間でもあるのです。神が待降節の歩みの先に示されるのは、本当に小さなしるしです。無力な、親の世話を受けなければ、何もすることが出来ない小さな命の誕生を、アドベントの旅の終わりに神は示すのです。

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