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2018年3月25日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.3.25 マルコによる福音書14:32-42 「悲しみの祈り」     望月修治   

◆ キリスト教はイエスと共に生きた人たちが味わった期待はずれから始まったということができる
と思います。とくに一番身近にいた弟子たちが味わった期待はずれは、イエスが十字架にかけられる前のわずか1週間の間に起こったことです。福音書の記者たちはこの最後の1週間に起こった出来事を丹念に書き記しています。それは決して忘れてはならない出来事だからです。福音書の受難物語からは、イエスのことを心に深く刻み込むことを願う人たちの祈りが聞こえてくるようにも思います。イエスの最後の1週間、そのなかで特に印象深く語られる場所が二つあります。イエスが捕らえられる前に祈ったというゲッセマネと十字架に架けられたゴルゴタです。今日の箇所には、ゲッセマネを忘れえぬ名とした出来事が語られています。

◆ イエスは弟子たちとの食事を済ませたあとオリーブ山へ出かけました。オリーブ山はイエスが祈りの場として、折々に弟子たちと一緒に訪れていた場所でした。今回も弟子たちを一緒にともなってイエスはオリーブ山に登りました。しかしゲッセマネと呼ばれていた場所まで来ると、イエスは「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と弟子たちに言い、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴いさらに進んでいったと記されています。マルコによる福音書には、5章では、イエスがこの三人だけを伴って出かけたことがあったことが記録されています。5章は、会堂司ヤイロの家に出かけ、重い病のため死んだ娘の部屋に、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネ、この三人を伴って入り、「タリタ、クム(娘よ、起きなさい)」と言って娘を生き返らせたと記されています。9章は、高い山の上でイエスの姿が変わり、その服はどんなさらし職人の腕も及ばぬほど真っ白になったという場面です。そのときやはりこの三人がイエスと一緒にいました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、彼等三人がイエスに伴われた時、いずれも特別なことが起こりました。したがってこの福音書の読者は、今日の箇所の33節に「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた」と記されているのを読めば、また特別なことがここでも起こるのだということを予想することになります。

◆ 確かに特別なことが明らかになっていきます。そして同じ三人の弟子たちがその場に伴われていたということは、5章や9章と同じように、ゲッセマネの園で起こったことにも、イエスが救い主であること、神の意思が示されていることの証人となるようにイエスから願われていたということなのです。しかしそれは死んだ者を生き返らせるとか、姿が真っ白に輝くといった、人間の力を越えた力や姿を示すという意味での特別なことではありません。まったく逆です。こともあろうに、救い主が<ひどく恐れ、もだえ、死ぬばかりに悲しい>と訴えるという、全く予想外の姿を見せるという意味で特別なのです。弟子たちも含めて当時の人々が思い描き、期待していたのは英雄的メシアであり、奇跡を行い、栄光に満ちた救い主でした。ところがゲッセマネでのイエスは死んだ者を生き返らせるといった奇跡を行うイエスではありませんでした。その姿が神々しく輝く栄光に包まれたイエスでもありませんでした。恐れおののき、もだえ、不安に駆られ、おびえてさえいるのです。「死ぬばかりに悲しい」とイエスは言うのです。

◆ イエスはおののきやもだえや不安を神の前にさらけ出していくのです。35節はそのようなイエスの姿を伝えています。「少し進んでいって地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけて下さい』。」 ・・・・「アッバ」とは、イエスが日常使っていたアラム語で父を意味しますが、特に幼児が父親を呼ぶときの言葉です。この事は少し丁寧に受け止めることが必要です。 聖書において神はしばしば<父>と呼ばれています。イエス以前のユダヤ教において、律法の教師たちが神を父と呼ぶ、それは親しさや近さの表現ではなく、いわば家父長的な遠さを表そうとして<父なる神>と呼んだのです。神は遠くにあり、むやみに近づくことは出来ない厳しさを持っている。

◆ これに対してイエスは同じ父という呼び方をしましたが、<父なる神>ではなく<我らの父><我が父よ>と呼びかけました。そのときにイエスが使った言葉が<アッバ>でした。家庭内で幼い子どもが父親に向かって呼びかけるときの親しみが宿る言葉です。幼子が父親を呼ぶときの言葉で神を呼ぶ、というのは当時のユダヤ社会にあって、まことに新しい、従って人々の心に実に印象深く、かつ新鮮に響いていった言葉でした。家庭内で幼い子どもが「アッバ」と呼びかけながら父のもとにトコトコと歩み寄ってくる、その親しさ、近さこそが神と人間との関係を喩えるのにいちばんふさわしいモデルなのだということをイエスは<アッバ>と神を呼ぶことで示したのです。

◆ その神にイエスが心の思いをさらけ出していく、それが今日の箇所なのです。十字架への道をイエスは悩むことなく、迷うことなく、平然として受け入れ、歩んだのではありません。神の前で迷いやおそれを露わにするイエスがいます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」この祈りは納得ではなく。迷いです。この杯を取りのけてほしい、という思いがあり、一方それではいけないのだ、神にゆだねなければ、という思いがある。その二つの思いの間でイエスも揺れ動いたのです。揺れながら、しかしイエスは祈っています。祈るということは諦めないということです。諦めないということは神を信頼するということです。

◆ 祈った後、戻ってみると3人の弟子たちは眠りこけていました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」そう弟子たちに語ったイエスは、また一人離れて、先ほどと同じ言葉で祈ったとマルコは記しています。そして再び戻ってみると、弟子たちはまたもや眠り込んでいました。そしてイエスはさらにまた、祈るためにその場を離れます。この繰り返されるイエスの祈りは、十字架への道を示す神に対して、他に道はないのですかと尋ねながら、神の思いを確認し、救い主として担うべき道は十字架しかないことが明らかにされ、それを受けとめ従うためにイエスが必要とした時であったのだと思います。十字架へという神の意思を受けとめるには、1度祈ればすむということであるはずがないと思います。幾度か、同じ言葉での祈りが繰り返され、その繰り返しの中で、神の心をイエスは受けとめたのです。諦めたのではありません。「仕方がない、神がそう言われるのなら」ということではありません。心に備えをして、踏み出したのです。

◆ 3度目に戻ってきた時に、なお眠っている弟子たちに「もうこれでいい。時が来た」とイエスは言います。神の思いが明らかになったとき、イエスが担った救い主としての働きは、眠りほうけるペトロたちを負って立つことでした。イエスは最後までペトロたちを伴って行かれます。あきらめて見捨てるのではなく、みんなを抱えて、「立て、行こう」と言われるのです。ゲッセマネで眠りほうけた弟子たちに、イエスは寄り添い続けて、「立て、行こう」と促されました。人はどんな時にも自分の傍にいて、「立って、さあ行こう」と呼びかけてくださる方に出会うことによって歩みを重ねていくことができるのだと思います。自分の力で立とうと力むのではなくて、「立て、さあ一緒に行くよ」と言ってくださる声に耳を傾けることにこそ、基盤をおいて歩む者でありたいと思います。

2018年4月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年4月8日(日)午前10時30分
復活節第2主日 新入生歓迎礼拝
説 教:「密室への来訪者」
牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書 20章19〜31節
招 詞:コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章10〜12節
交読詩編:145;1-13
讃美歌:26,57,326,403,91(1番)

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