SSブログ

2021年4月25日(日)説教要旨  [説教要旨]

説教要旨2021.4.25 ヨハネによる福音書11:17-27 「イエスの願い」 大垣友行

◆ 栄光館の講壇に立たせていただいて、神学生時代の思い出とともに、伝道師との歩みが始まったと思いましたら、再び本日から緊急事態宣言が出されるという運びになりました。同志社教会での生活だけではなくて、日常生活全体が様変わりし、そこかしこに新型コロナウイルスの脅威が顕在化しています。

◆ さて、本日の聖書箇所は、ラザロの死と復活にまつわるエピソードの一部分です。イエスはそれまでに、様々な土地を巡って、奇跡を行って来られました。そんな中、ベタニアという、エルサレムから3キロほどのところにある村の出身で、イエスご自身と深い繋がりを持っていた、マルタとマリアという姉妹の弟、ラザロが病のために臥せっていることを知らされたのでした。11章3節に、「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言われています。また5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とありますから、彼らの関係は、大変深く、親密なものであったことが想像されます。それほど愛している者が病んでおり、ましてや死に瀕しているのであれば、居ても立ってもいられなくなるはずです。それなのに、イエスは、ただちにベタニアに赴かれず、「二日間同じ所に滞在された」と書かれています。その理由は、一般的な常識をもってしては、到底見当もつかないでしょう。イエスは、ラザロがすでに死んでしまったことをはっきり自覚され、次のように述べておられます。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。イエスを取り巻いていた弟子たちは、きっと当惑したことでしょう。彼らを尻目に、イエスが「彼のところへ行こう」と言われた時、トマスは死ぬ覚悟さえ固めて、戸惑う仲間たちを奮い立たせたのでした。

◆ そして17節からですが、イエスは弟子たちを従えて、ラザロのもとにやって来られました。ですがラザロは、イエスがはっきりとご存知であったように、すでに死んでしまっていました。イエスを迎えたマルタは、再会の喜びよりも、ラザロを失った悲しみに打ち拉がれて、次のような言葉をかけています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。これまで、イエスが様々な病や重荷に苦しむ人を癒やされてきたことを知っているだけに、マルタのこの言葉は、ある種の非難として響きます。癒やしの力を持っているあなたが、どうして、他ならぬラザロのそばに居てくださらなかったのかという、無念の響きを聴き取ることができます。先に述べましたような、親密な関係にあったはずではなかったのですか、と。

◆ しかし、マルタは、イエスに自分の思いを訴えただけではありませんでした。むしろ、それを取り繕うかのように、言い継いでいます。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。この時マルタは、兄弟であるラザロの死に直面し、その事実に否応なく圧倒されています。それでもイエスへの信頼を失ってはいません。この言葉によって、ラザロを生き返らせてくださるかもしれない、という望みを繋いでいるのです。イエスはそれに応えて、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。このことは、福音書の物語を読むわたしたちにとっては、文字通り、ラザロが生き返らされることを言っておられるのだと分かるわけですが、マルタはある意味用心深く、おそらくは自らの心からの願いであるような復活ではなくて、終わりの日の復活のことを言っておられるのだと解釈しました。体の死を迎えた者は、最後の審判の日まで眠り続けることになる。こうした復活理解は、当時のユダヤ=キリスト教世界において、共通したものでした。マルタはそれを踏まえて、イエスの言葉に答えたのでした。しかしイエスは、わたしたちが知るとおり、信じられていた最後の審判の日を待たずして、ラザロを復活させられたのです。

◆ イエスは続けて言われます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。それなら主を信じるわたしたちも、たとえ体の死を迎えても、ラザロのように、最後の日を待つことなく、たちどころに生き返らせていただくことができるのでしょうか。イエスがマルタに対して述べておられることは、肉体的な死を免れることができるということではなくて、たとえ肉体的な死を迎えたとしても、そのことによって決定的な終わりを迎えるのではない、ということです。ここで思い出したいのは、ベタニアに向かう前に、イエスが述べられたことです。ラザロの死、そして復活は、「あなたがたが信じるようになるため」であると。数々の奇跡と共に、ラザロの復活を人々の目の当たりにさせた理由は、イエスを信じる者が罪から解放されること、つまり、神との正しい関係に立ち返ること、そして、永遠の命を与えられること、それも終末にではなく、今ここで、そうなるのだ、ということを教えるためなのです。

◆ なるほど、永遠の命、永遠の命よりも、この地上での生が問題だ、と思われるかもしれません。ラザロのような仕方で生き返らせていただくのでなければ、と考える人もいることでしょう。ですが、地上での生を永らえるには、地そのものが永遠でなければなりません。ところが実際はそうではありません。愛する人、大切にしているもの、そして天も地も、この世の生を成り立たせている条件の一切が、裁かれる時が来ると言われているわけです。それならば、地上の生にだけこだわっていることはできない、ということになるでしょう。

◆ しかし、永遠の命だけを問題にして、この地上での生命をないがしろにする、そういうことが言われているのでもないと思います。どこか沈んだ心持ちで、体の死を迎える準備をしよう、そういうことではないはずです。わたしたちは、イエスの願いによって、死へとではなく、むしろ命へと押し出されているのです。永遠の命を常に希望として、粘り強く、この地上での命を全うしてもらいたい。それも、イエスが願っておられることであると、わたしは思います。

◆ このようにして、イエスが自らについて教えられたことは、今この時を生きるわたしたちにも、同様の意味をもって迫ってくるのではないでしょうか。わたしたちには、これまでになかったような仕方で、死の危険が迫っていることが感じられます。様々な理由から、それぞれの重荷のために、ただでさえ生きることに困難を覚えているところに、追討ちをかけるようにして、新型コロナウイルスの脅威が、様々な形で世界を覆い尽くしてしまっています。ですが、そのような時であるからこそ、「このことを信じるか」というイエスの問いかけが、わたしたちの胸に差し迫って来ないでしょうか。困難な時であればあるほど、わたしたちが永遠に滅びてしまうことがないように、というイエスの願いが、その輝きを増しはしないでしょうか。イエスの物語の一部始終を知っているわたしたちであれば、ある意味では、当惑することなしに、試練を試練として受け止めることができるかもしれません。

◆ 3章16節以下にありますように、御子を信じる者が永遠の命を得、裁かれないという、父なる神の願いは、イエスの願いと響き合っています。そしてその願いは、御子をこの地上に遣わし、わたしたち一人一人の罪を背負って十字架につけられることによって、成就されるのです。マルタに、「このことを信じるか」と語り掛けたイエスは、もちろん、ラザロの復活を通して、わたしたちにはっきりと、「そのこと」を理解させようとしたわけですが、その目はご自分の十字架と復活を見据えておられたように思います。

◆ 十字架の出来事を経て、イエスの願いは、イエスを信じるものにとって、すでに果たされています。イエスを信じる者は、すでに永遠の命を約束されており、新しい地上の生を歩み始めることが許されています。わたしたちもまた、物語を通して、ラザロの復活を目の当たりにした者として、御子の願いと十字架とに思いをいたし、絶えず希望を持って、永遠の命へと続くこの困難な道のりを、共に耐え忍びつつ、歩んで参りましょう。

2021年5月9日(日)主日礼拝  [主日礼拝のご案内]

2021年5月9日(日)
復活節第6主日
説 教:「奥まった自分の部屋で」
    伝道師 大垣友行

聖 書: マタイによる福音書6章1〜15節
招 詞: 列王記上18章36〜37節
讃美歌:27, 495(1節・3節), 496(1節・3節), 91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※各学校で配布されているメールアドレスでは、セキュリティー的にこちら側からのメールをお送りできない場合があります。そのため、gmail、yahoo mail、などのメールアドレスをお送りくださりますと助かります。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。