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2020年7月5日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次週の礼拝(YouTubeライブによるオンライン礼拝です)
2020年7月5日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第6主日

説 教:「壁の向こう側」
    牧師 望月修治
聖 書:エフェソの信徒への手紙 2章11〜22節
招 詞:ヨハネによる福音書 4章38節
讃美歌:24、224、401、91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

2020年6月21日 説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2020.6.21 ヨハネの手紙Ⅰ 2:22-29 「真理の語り部」     望月修治

◆ 紀元100年前後、キリスト教会は同胞のユダヤ人、特にファリサイ派と呼ばれたユダヤ教のグループから厳しい迫害を受けました。彼らはエルサレム、特に神殿が崩壊したことによる危機意識から保守化し、律法を守ることに頑なに固執するようになります。そして自分たちの律法解釈に合致しない立場の者を「異端」として排除するようになったのです。このような危機にキリスト教会が見舞われていた頃に、ヨハネの手紙は書かれました。教会を襲った危機は当初、ユダヤ人、ユダヤ教の側からの迫害でした。しかし、ヨハネの手紙が書かれた時代の危機は教会の内部に存在する危機です。22節に「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」とあります。「反キリスト」と呼ばれる勢力が存在するようになったことで教会を危機に追い込んでいくのです。ヨハネの手紙における「反キリスト」はキリスト者を迫害するような意味での反キリストではなく、「偽り者」あるいは「嘘つき」ということであり、そのままにしておけば教会をその内部から崩壊させてしまう動きです。ある意味ではユダヤ教のような外からの危機よりも根が深い危機と言えるかもしれません。

◆ そのためヨハネの手紙には「偽り者」という表現が1章10節、2章4節、4章20節、5章10節と重ねて記されています。そこからは、この手紙を書いたヨハネの教会が直面していた危機の深刻さが伝わってきます。「神を偽り者とする」「神を嘘つきにする」とは厳しい表現です。神を知る知識をもっていることを人には誇りながら、愛をなおざりにする。神を愛していると言いながら、兄弟を憎み、人を利用し、人を欺く。そのようなあり方がヨハネの教会に顕在化していたのだと思います。

◆ 教会を内部から崩壊させてしまいかねない危機にどのように対処するのか。危機への処方箋をヨハネは「神は愛である」と表現される神の働きに見出そうとします。4章10節以下にその処方箋を次のように記しています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」 愛は人から始まるのではなく神からはじまる。愛の奥義を語った見事な処方箋です。「わたしたちの罪を償うために、御子をお遣わしになりました」とも記されています。

◆ 人間の救いのために「御子を遣わす」というとんでもないことをする神は「低きにくだる神」です。芥川龍之介の短編に「蜘蛛の糸」という教訓に満ちた物語があります。極楽から、地獄に向かって、お釈迦様が救いの糸を垂れてくださる。それに多くの人が群がり、それを下から上へと一目散に昇ってくるのです。争い、憎しみ合い、誰かを蹴落とそうとする。自分だけ助かろうとする。ところが最後には糸は切れてしまうのです。聖書の神は上から糸を垂らす神ではありません。ご自身は安全な場所におられて、そこから糸を垂らす神ではありません。神がかけがえのない大切な存在をこの世の遣わすのです。聖書の神は下から上へあがってこい、とは言いません。逆です。神が上から下にくだる、「低きに降る神」です。

◆ 自分の足元に救い主を感じた男がいます。ザアカイと言います。彼は徴税人でした。税金を集めてまわる仕事です。当時、徴税人は好まれない仕事でした。しかもこの男は権力を濫用して税金を集める時に規定以上の金額を徴収するという不正をしていたようです。当然人々からは嫌われます。そして人々はこの男の背が低いことを陰であげつらい、そうすることでうさを晴らしていました。そんな彼に友人などいるはずはありません。不正で貯めたお金はありますが、毎日は虚しさの連鎖でした。ある時、この男が住むエリコの町に、イエスがやってきました。誰もがイエスをひと目見たいと思っていました。この男もそうでした。大変な人だかりです。しかし背が低いこの男は、街道を弟子たちと共にいくイエスの姿を見ることはできませんでした。誰も彼を前に出してはくれなかったのです。それでもどうしても見たくて、いちじく桑の木に登ったのです。ですからこの男はイエスを上から見下ろすことになりました。するとそこにイエスが通りかかり、上を見上げて、この男に声をかけてくれました。「あなたの家に泊まりたい」。・・・男は驚きました。周囲にいた人々も同様です。家に泊まるということは、あなたの友となるということでしょう。親しくなるということであり、共に歩みたいと言って下さったということです。悩みがあるなら一晩中でも聞く覚悟だということです。

◆ 聖書はこの出来事の後、男の人生は変わったのだと語っています。もう不正はしないといい、不正で得た財産は返しますと言ったというのです。この物語で大切なことは、この男がイエスと出会った時、男が木の上にいて、イエスがその下にいたということです。少し硬い表現で言えば、救い主がこの男の下にいたということです。さらに言うならば、この時イエスは人から嫌われ相手にされないこの男の人生の土台になる決意をしたということなのだと思います。

◆ 「救う」という言葉は、ふつうなら上にいる人が下にいる者を憐れんで、下にいるその人を「救い上げる」ことを意味します。しかし救い主イエスは、救い上げるのではなく、この男の足の下におられるのだ、というのです。救いというのは、私の人生が、そして私たちの人生がこれ以上落ちていかないように、どんな時も私を、そして私たちを支える土台となってくださることだというのです。ザアカイという男の人生が教える救いというのは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように下から上へと昇っていくことではありません。神が上から下へくだるのです。それが、聖書が私たちに証言している神です。

◆ それをこの手紙は、20節で「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」という表現で語っています。手紙の言葉は硬い表現が多いので理解にてこずります。「あなたがたは油を注がれている」とはどういうことなのかといささか戸惑いを覚えてしまいます。油を注ぐという行動は元々羊飼いがすることでした。羊の毛の中にシラミなどの虫が入ってしまうことがしばしばあり、これらの虫は羊の耳に入り込んで羊の死因となることがあるのです。ですから、古代の羊飼いたちは羊の頭に油を注ぎ、虫が油で滑るようにして虫が羊の耳に入ることを予防していました。このことから、油を注ぐという行動は祝福、守りと力を与えることの象徴と考えられるようになります。聖書の時代、人々が油を注がれるとそれは神の祝福や召しがその人に与えられたことを示すと理解されるようになりました。

◆ 神が自らの意志を実現するために、誰かを選び、務めを託して派遣することを「召命」と言います。イエスは神のそのような働きについて次のように語ったことがありました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」神は全能、つまり何でも出来る力を持っておられる。大切なのはその力をどう使うかです。この手紙の4章19節に「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです」とあります。神はなんでもできる力を、私たちを愛するために、つまり大切に支え、育むためにこそ使う方なのだということです。人と共にあり、ともに生きるために力を用いる、それが、「神が愛して下さった」ということなのだと思います。

◆ ルカによる音書のザアカイの物語は、ともにおられるというイエスは私たちのどこにおられるのかを具体的に語っているのです。私たちが落ちていく、倒れてもう立ち上がれないと思うような場所に至ってしまった時にも、それよりもっと下にいて、この私たちを、それぞれ時、それぞれの場所で支えるべく、なん でもできる力を用いる方なのだと聖書は語っています。

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