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2018年12月30日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.12.30 マタイによる福音書2:1-12 「東方からのエトランゼ」  望月修治    

◆ 先週日曜日12月23日に後宮俊夫牧師がお亡くなりになりました。96歳でした。25日に前夜式、26日に告別式が草津のシティーホールで執り行われ、参列しました。前夜式、告別式それぞれ三人の牧師が祈祷、式辞、思い出を語られました。それぞれの祈りと言葉に命がありました。後宮俊夫牧師の生き方の深さ、いや神によって生かされた命の深さを思いました。

◆ 告別式の最後の挨拶で、敬彌牧師は父俊夫牧師の思い出を話されました。敬彌牧師が千歳栄光教会を牧しておられた時、どうして良いか全く分からない事態が起こりました。榎本保郎牧師の弟の榎本栄次牧師が訪ねてこられたので、相談したら「どうにもならんな」と言われた。そして祈ってくれた。でもどうしろというのかと途方にくれます。そして父の俊夫牧師に電話をされたのだそうです。「牧会のことで父に電話したのは、多分その時一回きりだった思う」と言われました。話を聞いた俊夫牧師は言われました。「どうにもならんな」。けれどもこう言葉を重ねて言われました。「でも神様がどのようにしてくださるか、それが楽しみだ」と。「この言葉に私はずっと支えられてきた」と敬彌牧師は言われました。後宮俊夫牧師の歩まれた生涯を重ねるなら、この言葉は深くそして重みを持った言葉です。

◆「神様がどのようにしてくださるか楽しみだ。」東方からおそらく2千キロを超える困難な旅をしてユダヤにやってきた占星術の学者たちもおそらく同じ思いを抱いて自分たちの国を旅立ったのです。
福音書記者のマタイは「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」と前置きし、次のように記しています。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」ヨセフと婚約中のマリアが、聖霊によって身ごもっている、それを信じるというのは無理な話です。両親やヨセフも、彼女の言葉を信じることなどできようはずがありません。ましてナザレの村人たちはなおさらのことです。今の時代ならあっという間にネット上で拡散し、バッシングの嵐がマリアを、ヨセフをなぎ倒してしまうでしょう。「聖霊によって身ごもる」などと簡単に言ってくれるな、と思います。マリアとヨセフの苦悩は深いのです。しかし、苦悩がどんなに深くても、マリアは身ごもったという事実から逃れることはできません。事実を告げるしかありません。「聖霊によって身ごもった」、このマリアの言葉以外に、ヨセフは目の前で起こっている現実を説明する言葉を聞けないのです。

◆ マリアを大切に思う気持ちと律法を守ろうとする正しさとの間で苦しみ続けるヨセフに天使が現
れて、こう告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」ヨセフはこの言葉に押し出され、マリアと共に生きることを選び取るのです。神が何をなさるのかを待つ、という生き方をヨセフは選んだのです。そしてイエスが生まれます。

◆ 救い主の誕生、この出来事にマリアとヨセフ以外で最初に出会ったのは東の方からやってきた占
星術の学者たちであったとマタイは書き記しました。エルサレムにやってきた彼らは王ヘロデのところに来て、尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」これを聞いてヘロデは不安を抱いたとあります。学者たちが辿ってきたルートは砂漠です。砂漠の旅の日々には、砂嵐の日があったはずです。道がわからなくなってしまった時もあり、水がなくなってふらふらになってオアシスにたどり着いたこともあったはずです。強盗に命を狙われたこともあり、何日も野宿しなければならないこともあったと思います。そのような危険を覚悟してまで彼らはユダヤまでやってきました。彼らもまた、神が何をなさるのかを見るという生き方を選び取った人たちです。ですから「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」という彼らの言葉はヘロデを恐怖に陥れました。

◆ 「ユダヤ人の王」とは、文字通りには「ユダヤ人の国を治める王」ということです。しかし、そ
の「ユダヤ人の国」は当時ローマ帝国の支配下に置かれていました。ヘロデはローマ皇帝に媚を売ることによってその地位を保っていたのです。ヘロデは絶えず猜疑心を抱いており、少しでも自分の地位を脅かそうとしそうな人間は殺害しました。妻や子どもも例外ではありえませんでした。だから彼は深い孤独の中を生きています。そういうヘロデにとって、絶えず恐怖の対象であったのは聖書の預言です。いつの日か「ユダヤ人の王」としてメシア、救い主が生まれるという預言です。占星術の学者たちは、その預言が実現したはずだと言っている。その時から、ヘロデは恐怖に怯えます。

◆ クリスマスの物語に登場するのは二つのタイプの人々です。ひとつは占星術の学者たちのように、救い主の誕生の出来事と向き合い、受け入れ、自らのこれまでの生き方を捨てて、新しい生き方を得ていく人たちです。もう一つの人々は、これまでの生き方にこだわり、これまでの自分を守りたいがゆえに、新しくなることを拒否する人たちです。それがヘロデです。彼は失うことを拒むが故に不安になります。しかしそれはヘロデだけではありません。圧倒的多数の「エルサレムの人々」も同様です。3節に「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と記されています。彼らもまた変わりたくなかった人たちです。

◆ ヘロデも、エルサレムの人々も、彼らが願ったことは、クリスマスの出来事があたかもなかったかのように生きることでした。ヘロデはそのために占星術の学者たちに、クリスマスの出来事を調べさせ、その上でこの出来事に関わる全てを消し去るために、二歳以下の男の子をすべて抹殺するように命じます。エルサレムの人々も占星術の学者たちのようには生きない。何事もなかったかのように生きようとしたのです。救い主の話も、輝く星も、すべて何事もなかったかのように生きているのです。それが上手な生き方だと考えたからです。マタイが幼い救い主に最初に出会ったのは、ユダヤの人々ではなく、異邦人である占星術の学者たちであったと記した理由はそこにあります。

◆ 占星術の学者たちは、何事もなかったかのように生きようとする者に、クリスマスのあと、何をすべきかを示す存在としてイエスの降誕物語の中に登場するのです。彼らは救い主の誕生を祝ったあと、自分の国へ、自分の生活の場へと帰って行きます。救い主に出会ったら、そのあとには楽園が用意されているというのでしょうか。そうではありません。学者たちは「帰って行った」のです。自分たちが今まで生きて来た場所に帰るのです。ただし来た時とは「別の道」を通って自分たちの国に帰って行きました。これは深い示唆を宿した言葉です。自分たちの国に帰って彼らを待っているのは、旅に出るまでと同じ世界です。しかしそれを受けとめる見方、視点を変えられて彼らは自分の国に帰って行くのです。それが「救い」です。救われるというのは、生きることへの視点を新たにされて、自分が生活している場所、生きている場所にもう一度立ち直すことです。帰って行くことです。それが救い主と呼ばれたイエスが人々に、そして今を生きる私たちに語り続けた「救われる」ことの意味です。視点を新しくして、視点を変えられて、今生きている場で生き直す、その促しをクリスマスの物語は東方からのエトランゼ、占星術の学者たちを通して語りかけるのです。

2019年1月13日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年1月13日(日)午前10時30分
降誕節第3主日
説 教:「漁師になれ」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書5章1〜11節
招 詞:出エジプト記18章19〜20節
交読詩編:101
讃美歌:25,206,290,402,91(1番)

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