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2019年1月6日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.1.6 ルカによる福音書3:15-22 「あなたがメシアか」  望月修治       

◆ 本日の聖書日課であるルカ福音書3章には、イエスに洗礼を授けたというバプテスマのヨハネの物語が記されています。ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。ヨハネが伝えるこの「悔い改めの洗礼」は人々に強い関心を抱かせました。マルコによる福音書によれば「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」というのです。そしてユダヤの人々は、自分たちが長い間待ち望んできたメシアはひょっとしたらヨハネその人ではないのかという期待感をふくらませて行くのです。

◆ 人はメシア(救い主)に何を期待するのでしょうか。イエスが誕生した頃のユダヤの民衆が期待したのは、何よりも自分たちを支配しているローマ帝国の治世からの解放を実現してくれる政治的なメシアでした。あるいは自分たちの生活を保障し、食べ物を用意し与えてくれるメシア、あるいはまた病気を癒してくれる、悪霊から解放してくれるという期待をメシアに求める人々もいました。そのような人々にヨハネは厳しい言葉を語ります。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」(7節) 洗礼を授けてもらおうとしてやって来た人たちを「蝮の子らよ」と呼んで、神の怒りがあなたたちに差し迫っていると告げます。

◆ その上で、ヨハネは非常に強烈な比喩を用いて、自分とメシアとの間には圧倒的な違いがあるのだと語ります。「わたしは、その方の履き物のひもを解く値打ちもない。」というのです。「履き物のひもを解く」ことは、当時、奴隷がする仕事の中でも最も卑しい仕事だとされていました。ヨハネは自分とメシアとの相違は、履き物のひもを解く値打ちさえないほど大きいと語りました。強烈な譬えです。

◆ その違いの大きさをさらにヨハネは洗礼を例に挙げて語っています。彼は「水で洗礼を授ける」けれども、やがて来られる方は「聖霊と火で洗礼を授ける」というのです。「聖霊と火」これは使徒言行録2章に記されているペンテコステの出来事、すなわちイエスの死後、隠れていた弟子たちの上に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、・・・ 一同は聖霊に満たされた」という神の圧倒的な働きを示す時に用いられている表現です。イエスが逮捕されことに恐れをなして、イエスを見捨て逃げ去ってしまった弟子たち、その同じ人間が十字架のイエスを救い主だと堂々と人々の前で証しする、それほどの変化を人にもたらす圧倒的な力、働きを表すのにルカが用いた表現が「聖霊と火」です。

◆ このようにバプテスマのヨハネは自分とメシアとの間にいかに大きな相違があるかを人々に語るのですが、それではヨハネの役割というのは何なのでしょうか。ルカは3:3でヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と記していますが、キリスト教会の歴史においては、バプテスマのヨハネの説く神が「正義の神」「裁きの神」であるのに対して、イエスが教えたのは「恵みの神」「赦しの神」「愛の神」であるという理解がしばしば強調されてきました。ヨハネの「厳格さ」に対してイエスの「優しさ」という形で区分けされてきました。しかしこの違いをただ単にどちらを選択するか、聖書の神は「裁きの神」か「それとも愛の神」か、どちらなのかという形で一方を採り一方を否定するということで扱おうとするのは実は違うのだと思います。結論を先取りして申しますと、悔い改めることなしの赦しというのが福音の中身ではないということです。問題は悔い改めるということと赦すということの順序なのです。

◆ そのことをルカは具体的な物語を通して語っています。15章11節以下に記されている「放蕩息子の譬え話」です。この譬え話の主要なポイントは父親です。財産の取り分を要求し、受け取って家を出て行った息子を思いやり、心配し続ける父親がこの物語のメッセージの大きな部分を担っています。この父親の姿は私たちに対する「神の愛」とはどのようなものであるのかを示しているからです。放蕩の限りを尽くしたあげく財産を全て使い果たしてしまった息子は、ボロ切れのような着物を身にまとって、空腹によろめきながら父の家に帰ってきます。するとこの父親は、いち早くそれが息子であることを見てとって、自分の方から走り寄って息子を抱きかかえ、僕たちにすぐに宴会の用意をするように命じます。イエスはこの父親の姿を通して、聖書の神がどのような方であるかを教えました。私たちがどのように罪深く、身勝手な者であったとしても、その私たちのことをどこまでも心にかけ、譬え話の息子のように父親つまり神のもとに立ち帰りさえすれば、いつでも迎え入れて下さる神なのだということをイエスは示したのです。私たちが悔い改める前にすでに神は赦す用意をして待っているのです。神の赦しが先行するのです。赦されるから私たちはやり直すことが出来るのです。この順番は大事です。やり直したから赦されるのではないのです。人がやり直すためにはまず赦しが必要なのです。そのために神は赦す用意をして待っている、それが「放蕩息子の譬え話」の重要なポイントです。

◆ しかしもう一つ大事なことがこの譬え話には書かれています。どん底まで落ちたこの息子が父の家に帰ろうと決心したとき、この息子の心に決定的な「悔い改め」の思いが湧き起こったということです。15:18「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」この悔い改めの思いを抱いて息子は父の元に帰ったのです。ところが父親は息子に言葉を発する間も与えず、息子のもとに走りより、息子を抱きしめました。その後で息子が悔い改めの言葉を語る様子が描き出されています。ただ私たちはこの「後で語られた悔い改めの言葉」の意味を十分受けとめないまま読み進んでしまいがちです。しかしながらこの物語の大きな転換点は、息子の「悔い改め」への目覚めにあります。そして「悔い改め」は先行する神の赦しに対する応答として位置づけられています。悔い改めは父親の受けとめがあった後で語られます。後からではありますが、語られるのです。決してこの悔い改めの言葉は付け足しではないのです。あってもなくてもよいものではないのです。与えられることだけが強調される信仰は人を生かしません。応えることが人を生かすのです。

◆ この「放蕩息子の譬え話」の少し後、17:11以下に、重い皮膚病を患っている十人の人をイエスが癒したという出来事が記されています。この物語の結論はこうです。癒された十人は大喜びで帰って行くのですが、感謝を述べるために戻ってきたのはひとりの外国人だけであった。イエスはその人にこう言いました。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この宣言は立ち帰るという応答に対してなされたものです。

◆ ある人が語っています。「 私は聖書のほんの一部しか、それも、ほんのうわっつらしか分かっていなかったが、キリストの「私の所へ来なさい」という言葉に素直について行きたいと思った。私の今の苦しみは洗礼を受けたからといって少なくなるものではないと思うけれど、人をうらやんだり、憎んだり、許せなかったり、そういうみにくい自分を忍耐強く許してくれる神の前にひざまずきたかった。許されても許されても、聖書の言う罪を犯し続けるかもしれない。苦しいと言ってわめき散らす日もあるかも知れない。でも、「父よ彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです」と十字架の上から言った清らかな人に従って生きてみようかと思った。」

2019年1月20日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年1月20日(日)午前10時30分
降誕節第4主日
説 教:「故郷の居心地」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書4章16〜30節
招 詞:コリントの信徒への手紙Ⅰ
1章4〜5節
交読詩編:111
讃美歌:26,148,403,399,91(1番)
◎礼拝場所:神学館礼拝堂(3階)

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