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2019年1月13日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.1.13 ルカによる福音書5:1-11 「漁師になれ」      望月修治     

◆ ガリラヤで始まったイエスの活動は人々の間で評判になり、人々の注目を集めていきました。5章の書き出しの描写もそのことを伝えてくれています。「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた。」熱気をはらんだ群衆がイエスを取り囲んでいます。しかしこのときイエスの眼差しは目の前の群衆にではなく、別の方向に向けられていました。「イエスは、二そうの舟が岸に上げられているのを御覧になった」とルカはその時の情景を描いています。イエスが関心を持って眼差しを向けたのは舟の近くにいた漁師たちだったと思います。彼らは舟から上がって網を洗っていました。この時彼ら漁師がどのような状況に置かれていたのか、ルカはイエスと漁師の一人シモンとの会話を通して明らかにしていきます。一晩中ゲネサレト湖に舟を出して漁をしたけれど何もとれなかったというのです。徹夜です。ただ起きていたのではなく、働きずくめの徹夜ですから、どんなにたくましい者でも疲れ果てます。今はただ網を洗って、早く家に帰って眠りたい一心であったと思います。群衆は神の言葉を聞こうとしてイエスの周りに押し寄せてきていました。けれど漁師たちはこの時、神の言葉を聞こうなどという気持ちにはなれなかったはずです。

◆ この朝の漁師たちを見るイエスの眼差しはどのようであったのだろうかと思います。どの宗教でも人間が神を探し求めます。しかしイエスを世に遣わした神は逆です。神のほうが人間を探し求めます。イエスの方から漁師たちに呼びかけるのです。空しく網を洗っているシモンのところに、イエスは踏み込んでこられるのです。そして人間が味わう空しさの只中で神は働いておられることを具体的に示すのです。沖に舟を漕ぎ出して漁をしなさいとシモンを促します。プロの漁師であるシモンから見れば馬鹿げたことです。無駄なことです。徹夜明けですよ、私たちは。沖へ行くなんて、そんな漕ぐ力は今ありません。またの時にしましょうと、いくらでも断れたのに、この時シモンは舟を漕ぎ出していきます。その理由は「お言葉ですから」です。漕ぎ慣れた水路をたどり、沖へ出る、それはシモンがいつもやってきたことです。しかしこの時一つだけ初めてのことがありました。それは「お言葉ですから」です。「あなたのお言葉ですから」です。シモンが語ったのではありません。あなたが語った、イエスが語った、そのあなたの言葉だけを理由として、あなたの言葉だけに基づいて、あなたの言葉に賭けて、踏み込む。これはシモンが知らなかった歩みです。新しい歩みです。「あなたのお言葉ですから」この一点が今日の箇所に記されていることの要です。

◆ イエスはわたしたちを捜し求めて通りかかり、わたしたちを見て近づき、わたしたちに呼びかけてこられるのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」人間は海の中で溺れて死んでしまいます。人間をとる漁師とは、人間を死から命へと連れ出すことを言うのでしょう。イエスはシモン・ペトロ、ヤコブとヨハネ、彼ら漁師を釣り上げ、彼らはイエスに従い始めます。「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」すべてを捨てる、漁師であった彼らにとって「すべて」とは、舟であり、網であり、漁師として生活を成り立たせてきた労働の道具をみな手放すということです。

◆ ユダヤの世界では、弟子が師を選ぶのが普通でした。教えることをすべて教え終わったら、今度は師が弟子を去らせ、律法に従って生きていきなさいと促すのです。けれどもイエスはご自分が弟子を選び、いつも一緒にいるようにと呼びかけます。「わたしは道であり、真理であり、命である」と語り、その「わたし」の後に従ってきなさいと促し、一緒に歩む、いつも共にいるからと約束するのです。

◆ ところで、「人間をとる漁師になる」イエスがシモンに語ったこの言葉は、いつの間にかキリスト教の伝道者を意味するようになりました。しかしイエスがペトロやヤコブやヨハネに「人間をとる漁師になる」と語ったとき、それは今で言う伝道者を意味していたのでしょうか。たしかに、彼らは、弟子として召され、伝道者となって福音を宣べ伝えたことは事実です。しかしそれはもう少し後になってからのことで、6章12-13節で「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」と記されている出来事の後のことです。今日の箇所の時点で、イエスはペトロやヤコブやヨハネを福音を宣べ伝え、信者を獲得する伝道者を意味して「人間をとる漁師」と呼ばれたのではないと思うのです。「とる」という言葉にひっかかりを覚えるからです。明治期に発行された文語訳聖書では、この箇所を「汝らをして人を漁る者とならしめ」と訳しています。漁る(すなどる)は魚をとることですが、「漁」は「あさる」とも読みます。根こそぎとってしまうという意味ももっていますから、一般には良い意味で使われません。「人を漁る者」という言葉は、魚をとる漁師のように人間を獲る漁師という意味で理解されてきました。それは口語訳聖書も新共同訳聖書も同じで「あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と訳しています。昨年12月に発刊された「聖書協会共同訳」聖書もやはり同様です。しかしギリシア語の原文に「とる」という言葉は実はないのです。原文に即して訳すと「あなたがたを人間の漁師としよう」という訳になります。「人間の漁師」と直訳したのでは意味がよく分からないので、「とる」を加えて訳し出したのだと思います。しかしその配慮は、かえって誤解を与えてしまうのです。伝道とは「人間をとること」だという誤解を生んでしまいました。漁師が魚をとるように信者を獲得し、教会に集めてキリスト教の拡張を図ることが伝道なのでしょうか。牧師や神父は、そのために「人間をとる漁師」になっているということなのでしょうか。確かに教会は伝道をしなければなりません。伝道は教会の使命です。けれども、その場合の伝道とは、人間を魚に見立てて、網ですくいとってくるようなことなのでしょうか。讃美歌第1編504には「垂穂は色づき、敏鎌を待てり、いざいざ刈らずや、時すぎぬまに」と歌われているのですが、伝道とは、人間を垂穂に見立てて、敏鎌で刈り取ってくるようなことなのでしょうか。

◆ 今日の箇所の最後に記されている「すべてを捨ててイエスに従った」という言葉が「人間をとる漁師」という言葉の意味することを読み解く鍵になっていると思います。「漁師」という言葉ですが、今日の箇所の「漁師」と訳されている言葉は、原文では「生きたまま捕る」人という表現になっているのです。マルコ福音書では文字通り「漁師」を意味する「ハリエウス」という言葉が使われています。しかしルカ福音書は「ゾグレオ」(生け捕る)という言葉を使って、「生け捕りをする人」という表現になっているのです。それを漁師と訳しているのです。同じ「漁師」という訳ですが、中身は違っています。最近の釣り人は釣った魚をそのまま水に戻してやるのがルールなのだそうですが、魚はとるものではなく生かすものだ、という考え方によるものなのでしょう。網で一網打尽にする漁(すなど)りではなく、一匹一匹との出会いを楽しみ、手に取って、そしてもう一度海や川に返す、それがルカ福音書の描く漁師の姿です。「人間の漁師にする」この場合の人間は単数形です。人々をとる漁師ではないのです。一人の人と出会い、共に交わり、そして共に生きる、それが伝道なのです。だとすれば、ペトロにとって、ヤコブにとって、ヨハネにとって、多くの魚をとる網や道具、多くの人たちをとる網や道具はもはや必要でなくなったということです。ですから「すべてを捨てて」なのです。

2019年1月27日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年1月27日(日)午前10時30分
降誕節第5主日
説 教:「神の場所」
牧師 髙田 太
聖 書:ルカによる福音書21章1〜9節
招 詞:エゼキエル書37章26〜27節
交読詩編:48:2-12
讃美歌:37(1番),1,410,356,91(1番)
◎聖歌隊合唱:「庭上の一寒梅」

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