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2015年11月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2015年11月8日(日)午前10時30分
降誕前第7主日
説 教:「更に旅は続く」
 牧師 望月修治
聖 書:創世記12章1-9節(旧約p.15)
招 詞:ローマの信徒への手紙
4章15―16節
讃美歌:26、155、430、448、91(1番)
交読詩編:105;1-6(p.115上段)

※次週の礼拝は静和館4階ホールにて行われます。どなたでもお越しください。

※次週のこどもの教会の礼拝は、野外礼拝になります。9:20に同志社女子大学栄光館前に集合してください。

2015年10月25日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.10.25  創世記1:1-5,24-31 「神のかたち」   望月修治           

◆ 今、毎週火曜日にNHKドラマ10の番組枠で「デザイナーベイビー」というドラマが放送されています。原作は岡井崇さんの同名の医療小説(早川書房刊)です。興味があって録画して時間のある時に見ています。デザイナーベイビーというのは受精卵の段階で遺伝子操作を行うことを意味するのですが、人間のいのち、生と死の意味が、今、あらためて問われています。

◆ 創世記1章には神が6日間をかけてこの世界を造り、7日目に休まれたという天地創造の物語が記されています。この物語は紀元前6世紀に作られました。当時ユダヤはバビロニアに占領され、多くのユダヤ人が捕囚としてバビロンに連れて行かれて50年にわたる捕囚生活をしていた時代でした。囚われ人としての暮らしが続く中で、生きていることの意味を見失って行った人々に、人間はどのような存在なのか、「あなたは誰なのか」、どのように生きるべきなのか、を世界の始まりに舞台を設定して語ろうとした物語です。

◆ 創世記1章の書き出しの言葉は「初めに、神は天地を創造された」です。「創造する」という言葉は、陶工が粘土をこねて、心を込めて器物を作るように、深い思いと明確な意志を込めて「形づくる」ことを意味しています。人間は6日目に造られたと語られています。27節です。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」人間は神の確かな意志によって形づくられ、命の息を吹き入れられて、生きる者となったのだと聖書は宣言しています。人間は偶然にこの世に存在するようになったのではなく、神の意志によって、この世に存在するものとされたのであり、神に生かされ、支えられ、導かれ、守られ、生かされて歩むのだと聖書は告げるのです。

◆ では人間という存在に刻み込まれている神の意志とは何か。神は人間を御自分に似せて創造した、つまり「神のかたち」に人間を造った、それが神の意志なのだと創世記は語っています。しかも「男と女に創造された」とあります。「神のかたち」とはどういうことか。古代世界では通常「王」だけが神のイメージをもつと言われました。「神のかたち」と言えばそれは「王」のことだったのです。しかし創世記1章の物語は、「神は御自分にかたどって人を創造された」と宣言します。「王」だけが特別なのではなく、全ての人間が神によって造られた存在、かけがえのない存在なのだという宣言です。

◆ 加えて人は「男と女に創造された」とあります。それは、ひとりひとりの人間を、それぞれ違いを持つ存在として造ったということを意味しています。男しかいない人間ではなく、女しかいない人間でもなく、男と女が向き合って生きるところに成り立つのが人間です。人は他の誰かと関わり合ってこそ力を発揮出来ることを「男と女」という表現は象徴的に示しているのです。そして人間が皆、違いをもって存在していることを「神は祝福した」と28節に記されています。人間が違いを生かして生きることを大切にし、互いに対等な存在として一緒に生きる。それが神に祝福された生き方であり、「神のかたち」として生きることの中身です。「神のかたち」とは神の「そっくりさん」という意味ではありません。人間は神に向き合うことで深く生かされる存在であること、そしてその神とのつながりを具体的に体験するのは、他者とつながり合い、さまざまな関係を結んで生きる時においてなのです。しかし人間は違っていることに対して必ずしも優しく、あたたかであるわけではありません。むしろ違いを理由に排除や差別が起こってしまうのが私たちの現実です。 

◆ 「ガリラヤのイエシュー」という本があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、この4つの福音書をケセン語に訳した本、聖書です。ケセン語というのは大船渡市、陸前高田市、住田町、釜石市唐丹町(旧気仙郡)一円に生きている言葉です。訳したのは山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)さんです。山浦さんは東京生まれでしたが、すぐ岩手県に移住し、大船渡市で育ちました。ケセン語の体系化に取り組み、気仙の人たちの心に届くようにと地元の言葉で四福音書を翻訳しました。「ガリラヤのイエシュー」は東日本大震災直後の2011年10月に新たに出版された四福音書のケセン語訳聖書です。

◆ 1979年のことです。カトリック大船渡教会は献堂25周年の記念式典を行いました。盛大なミサが捧げられ、楽しい祝宴となりました。山浦さんは余興のため壇上にたちました。手にはケセン語に訳した聖書の1ページを握っていました。何としてもみんなに聴いてもらいたかったのです。「空の鳥を見よ。彼らは播くことなく、刈ることなく、倉に納むることなきに、汝らの天父はこれを養いたもう・・・」慣れ親しんだ山上の垂訓がケセン語になりました。「空のカラスウ見なれ。種まぎもしねァし、稲刈(いなガリ)もしねァし、秋仕舞(あギじめァ)ァもしねァ。んだどもそなだァどァ天のお父様(どッつァま)ァこれァどォ養(あづガ)ってけやんでァねァな・・・」奇妙な笑いが会場からわきあがりました。ズーズー弁を聞いたら笑うのが作法であると強要されて来た東北人特有の、悲しい卑屈な笑いでした、と山浦さんは言います。でもそれはやがて静まりました。会場全体を感動が包むのを山浦さんは感じました。

◆ その会場に小山サクノさんというおばあさんがおられました。サクノさんは生粋の気仙衆(けせんし)でした。会が終わったとき、彼女が山浦さんの手をしっかり握って、言いました。「ハルツグさん、いがったよ。おらあ、何十年もこうして教会さ通(あり)ってっともね、今日のぐれァイエスさまの気持ちァわがったごどァながったよ・・・」 サクノさんの目に涙がひかっていました。その涙をみたとき、わたしはマリアさまに会ったような気がしましたと山浦さんは書いておられました。サクノさんは信仰の厚い、やさしいおばあさんでした。教会に熱心に通い、人々のために尽くしました。でも、彼女は悩んでいたのです。ミサで朗読される聖書は、「立派な」標準語で書いてあります。頭では分かったつもりでも、その言葉は所詮は頭の中の言葉でした。胸の中、腹の奥までまっすぐ響くものではなかったのです。お慕いするイエスさまの気持ちがよくわからない。その「申し訳なさ」はどんなにか悲しかったことでしょう。でも、自分たちの言葉で語られるイエスさまの言葉を聞いたとき、何の説明も解説もないのに、彼女はイエスさまの気持ちが本当によくわかったのです。「サクノさんの頬を伝ったあの美しい涙は、あれからずっと、わたしの魂を導き励ます明けの明星となりました」と山浦さんは言われます。

◆ 神は古代のオリエント世界で周辺の辺境の地であった土地に住んでいた小さな民を選び出し、自らの意志を顕わされました。イエスはそのパレスチナの中で都の人々からは「あんな地方で」とさげすまれたガリラヤで育ち、そしてその地方の人々が語っていたアラム語という方言でその地に住む人たちに神の働きを語り続けました。だからこそイエスの話は人々の心に届き、貧しかった人々、罪人だとレッテルを貼られていた人たちに「あなたも神のかたち」に神がつくられた存在なのだということが本当によく分かったのだと思うのです。神は人をそれぞれ異なった状況の中に生み出し、生かそうとされます。その命の基本を確かに踏まえること、違っていることこそ豊かさなのだということ、それこそが、神が人間を御自分にかたどって創造されたことの意味なのだと思います。この条件を生かして生きることが、今のわたしたちにとってどう生きることなのか、それを考え合い、語り合うことをしたいと思うのです。

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