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2021年1月31日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2021.1.31   マタイによる福音書5:17-20 「生き方指南」 望月修治


◆ 分からないことがあります。分からないことが起こります。今テレビで、夫と妻と娘、3人家族が出てくるある家電メーカーのCMが放送されています。朝、出勤前の娘が支度をしている、その様子を父親がさりげなく目で追っています。娘は「お父さんうるさい。お父さんの目がうるさい」と言って玄関に向かいます。父親は娘の突然の言葉に戸惑いの表情を浮かべます。夜、少し遅い時間になっています。娘の帰りが遅いので夫が妻に「帰りが遅いな、大丈夫か」といいます。妻は「もうすぐ着くってメールがあったから大丈夫よ」と答える。すると夫はソファーから立ち上がって娘の部屋に入り暖房のスイッチを入れて戻ります。帰ってきて部屋に行った娘がリビングに来て、「お母さん、部屋温めておいてくれて有難う」と言います。「それ、お父さんよ」と言われて、娘は急に「勝手に私の部屋に入らないでよ」と言うと部屋に向かいます。父親はまた少し戸惑った表情を見せます。翌朝、娘が横にいる父親に「お父さん、有難う」と言う。そこでCMが終わります。父親はつっかかってくる娘の気持ちがよく分からず、どう反応していいのか戸惑う。娘もなんで父親に気持ちが苛立ってしまうのかよく分からない。日常の暮らしの中には、このような「分からない」があります。

◆ 聖書の中にも理由が「分からない」こと、納得できないことがいろいろ語られています。今日の箇所はその最たるものだと言えます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと、思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」イエスが語ったことです。この発言は理解に苦しみます。「ちょっと待ってください」と思わず言ってしまう発言です。「あなたがそれを言いますか」と突っ込みたくなります。なぜなら福音書の中で出会うイエスは、律法というユダヤ社会の掟に縛られることにこだわらない生き方を貫いているからです。そのためイエスは、律法をきちんと守らないことでファリサイ派や律法学者たちから睨まれています。例えば、一切の労働を禁じる安息日の規定はユダヤ人にとって代々守り続けてきた大事な掟でした。それなのにイエスは神聖な安息日に病人を治すという労働とみなされた行為を平気でするのです。ある時には、手も洗わないで食事をしたために、律法違反だと咎められました。それに対してイエスは「口から入るもので人を汚すものなどない」と言って、律法の食物規定を完全に否定し、ユダヤ教徒が聞いたら腰を抜かすような、とんでもない発言をしています。

◆ それだけではありません。イエスは律法学者やファリサイ派の人々に辛辣な言葉を投げかけています。23章です。律法学者やファリサイ派の人々を手厳しく非難します。あなたたちは偽善者だ。人々の前で天の国を閉ざしてしまう。入ろうとする人を入らせない。あなたたちは改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう。あなたたちは杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている。あなたたちは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。・・・「お気持ちは分かりますが、そこまで言わなくても」と思わず諫めたくなるような激しさです。そのイエスがどうして、天地がひっくり返ろうと、律法の文字から一点一画も消え去ることはないし、これをないがしろにする者は天の国で最も小さい者と呼ばれるなどと言うのでしょうか。新約聖書最大の謎の一つです。

◆ 聖書ではしばしば取り上げられる律法ですが、そもそもユダヤ社会において律法とは何だったのでしょうか。律法は旧約聖書の時代に神がモーセを通してイスラエルの人々に与えた掟です。この掟は宗教生活だけでなく、ユダヤ人の生活全般にわたるガイドラインを示したものです。ユダヤ人は、それを守ることこそ神の意志に忠実に従う道である、と考えていました。しかし掟というものは、必ず守れない人を生み出します。だから律法というと、人を裁き、差別し、排除する手段だという悪いイメージを抱かせるのです。そしてイエスはその律法を廃棄し、その縛りから人々を解放するために来たのだと当然のごとく思っています。ところが今日の箇所でイエスは「律法を完成するために来たのだ」と言っているのですから、戸惑ってしまいます。

◆「律法を完成する」とはどういうことなのか。その答えをマタイは22章に記しています。22章34節以下です。ファリサイ派に属していた一人の律法学者がイエスを試そうとしてこう尋ねました。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」これは律法の根本精神は何かという問いかけです。イエスは答えています。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」律法の根本精神、本質は愛することだとイエスは語りました。しかしこのことが何かしっくりこないんだよねと思うことがないでしょうか。私たちの周りには、「愛」という言葉はあふれています。私たち自身も「愛」という言葉を語り合いながら会話を交わしています。「愛」は自明のことのように私たちの暮らしの中にあふれ、語り合われています。それでは「愛」ということを私たちによく分かっているかと問われた時に、じつは焦点が合わないまま愛を思い、語っている自分に気づかされることはないでしょうか。愛すること、愛されることの意味を本当には知らないまま生きているのではないか。あるいは見失っているのではないか、そんなことを考えさせられます。

◆ 律法を完成することの意味は愛することだと申し上げました.神は私たちに変わってほしいために、律法を押しつけた神ではありません。逆に私たちに寄り添うために神自らが変わったのです。それを端的に示すのが十字架の弱々しいイエスの姿です。私たちが変わることを願っている神の側がまず自らを変える。その姿を示すためにこそ神は、こういうふうに生きてごらんなさいと掟を与えたのです。それを人は、この掟を守らなければ神の元に立てないといい、律法を本来の意味とは全く違うものに変えてしまいました。そして人に押しつけ、守れない者を裁き、排除し、蔑んだのです。

◆イエスはそのことを悲しんだのだと思うのです。だから「わたしは律法を完成するために来た」と語ったのだと思うのです。イエスにとって「律法を完成する」とは自らが変わる。そして私たちに寄り添うという生き方をするということであったと思います。変わってほしいと思っている側がまず自分の生き方を変える、そのことによって相手もまた変わる。神はその生き方を、愛することの大切な中身として示し、私たちの傍らに共にいて下さる、そのことをイエスは人々に伝えたかったのではないか。

◆ 今日の箇所のようにイエスの言葉が分からず、戸惑ってしまうことがあります。分からないことがあるのは時にもどかしいし、辛いものです。こどもがある日「学校に行きたくない」と言う。親はその気持ちを分かりたいと思う。しかし分からない、そのことで親は心配し、悩みます。でも、思うのです。どう理解していいか分からないという感覚は、実は大事なのではないか。分からないままで終わることがあってもいいのではないか。分からないことが人の暮しの中にはあります。しかしただ一つだけ分かることがあります。確かなことがあります。「分からないこと」の存在は、わたしたちの目に見えていることだけが世界ではないことを教えてくれているということです。

2021年2月14日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2021年2月14日(日)
降誕節第8主日
説 教:「嵐の日、波たける湖で」
    牧師 望月修治

聖 書:マタイによる福音書14章22〜36節
招 詞:詩編107編13〜15節
讃美歌:27, 534(1番・4番), 566, 91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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