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2021年2月21日(日)主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2021年2月21日(日)
復活前第6主日
説 教:「試みの報酬」
    牧師 望月修治

聖 書:マタイによる福音書4章1〜11節
招 詞:申命記30章16節
讃美歌:29, 224(1番・2番), 289(1番・3番), 91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

2021年2月7日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2021.2.7  マタイによる福音書15:21-31 「落ちたパン屑」 望月修治

◆ この物語は戸惑いを覚えずに読むことは出来ません。イエスの態度、イエスの語る言葉に躓きます。「どうしてしまったのですか」と言わざるを得ないような会話があり、振舞いがあります。娘が悪霊にひどく苦しめられているカナン人の母親が、イエスに「どうか助けてください」と願い出ているのに、イエスは何も答えようとはしなかった。そればかりか異邦人であるこの母親に向かって「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言い放ち、異邦人のあなたに関わることは自分の役割ではないと拒絶するのです。しかも、この女性を「犬」と呼んでいます。ユダヤでは「犬」は異邦人を意味しました。異邦人への鋭い拒否感情を示す表現です。いったい、福音書はここで何を言おうとしているのでしょうか。この福音書のどこにわたしはいるのでしょうか。どこに自分を置いて読んだらよいというのでしょうか。

◆ 母親は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」とイエスに呼びかけます。しかしイエスは冷淡とも見えるほどに何も答えませんでした。この場面のイエスは冷淡さを漂わせています。イエスの排他的な態度にいぶかしさを感じないわけにはいきません。聖書の物語から思い描くイエスのイメージとは明らかに食い違っています。母親は引き下がらずにイエスに訴えます。「主よ、どうかお助け下さい。」 しかしながらイエスはなお突き放すように言葉を重ねるのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」・・・・子供とはここではユダヤ人のことです。カナンの女は娘の病気が何とか癒されるようにとイエスに願い出たわけですが、その救いの働きはまずユダヤ人に優先して与えられなければならない。カナン人であるあなたとあなたの娘に対してはその次だというのです。

◆ 人はどこかに可能性がまだあるのではないか、その1点を支えとします。しかしイエスはその可能性を断つかのように彼女に言うのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」・・・・イエスはカナンの女にはっきりと、彼女と彼女の娘が置かれている立場、状況を告げます。このイエスの言葉は彼女にとっては厳しいものです。どうにもならない現実を彼女ははっきりと告げられます。彼女はこのイエスの言葉に対して「主よ、ごもっともです」と答えます。動かしがたい事実に直面して「ごもっともです」と答えるしかなかったのです。彼女はそれ以上ここで抵抗しません。叫びません。反論もせずまた問い返しもしません。神の恵みの順序、それはまずユダヤ人からだという、イエスの示したことは彼女にとっては過酷なものです。それでも「ごもっともです」と受け止めます。

◆ しかしそれに続いて母親が発した言葉が、この状況を動かすことになります。「主よ、ごもっともです。しかし小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」・・・・思わず唸ってしまう言葉です。何も否定しない。イエスがはっきりと示した神の救いの順序をひっくり返すのではない。あらがって無理矢理こっちに頂戴とごり押しするのではない。パンはまず子供たち、つまりユダヤ人たちにという順序を彼女は否定しないし、崩さない。その上でパンではなくパンくずを取り上げます。この言葉はイエスを揺さぶり、イエスを動かします。パンくずを取り上げることによって、どうしても娘の命を救ってほしいと訴える思いの切実さにイエスは想いを動かします。物理的に何か新しいことが加わったのではありません。状況は同じです。ただそこにあるもののなかで「パンくず」に焦点をあてることによって、彼女は自分が置かれた実に重い現実を突破することを試みるのです。パンくずは、誰も拾わない、誰も取り上げない、誰も振り返らない不要なものを象徴しています。さらに言えばパンくずとは無益なもの、無意味なもの、ほうきで掃かれてしまうものです。でもそれを彼女は取り上げ、自分の娘が危機的な状況にある、切羽詰まっている、でも異邦人である自分にも娘にも神の働きは及んでいるのではありませんか、私と娘がおかれた状況を神は見放しておられるはずはないのです。だから振り返ってください、助けてくださいと彼女は願い、求めたのです。

◆ パンくずは子供たちが座った食卓からこぼれ落ちる。また小犬がその食卓に一緒に座ることはできない。そのイエスの指摘を彼女は確認しています。「主よ、ごもっともです」。しかし小犬はユダヤの人々が正当な権利として優先権を持って座る食卓の下にいるという独自な方法で、しかしそれは許されている正当な方法で、同時に食卓にあずかるものとなっていく。彼女はイエスから「神の恵みはまずユダヤ人からだ」と言われて、自分もユダヤ人のようになることを目指したわけではない。むしろ自分の現実にとどまりながら、パンではなくパンくずを取り上げることによって、イエスが示した壁をこえるのです。神はすべてのとき、すべての場所、すべての命に働きかける。神の働きに除外はない。神が働かない場所などない。神の働きが届かない状況などない。カナンの女が語った「パン屑はいただきます」という言葉は、そのことを語る言葉です。

◆ この言葉はイエスを動かしました。「まいった」と思ったのではないでしょうか。「あなたの信仰は立派だ」とイエスは応じます。カトリック司祭の本田哲郎さんはこの言葉を「あなたの信頼に満ちた振る舞いは大したものだ」と訳されています。この「大したものだ」は、イエスが突き動かされた大きさだと思います。神は人の願いを聞き、態度を変える神です。そして「あなたの信頼に満ちた振る舞いは大したものだ」と言われる。その大きさは神が態度を変えてくださった大きさなのだとも言えるのではないか。

◆ 何かをするとき、それにふさわしい力をもっと与えて下さい、そうすればやりましょう、という発想をします。しかし大事なのは今何を持っているかを確かめることではないのか。もっと何かを与えられたら、ではなくて、今持っているもの、パンくずにたとえられる状況であっても、そこに立つことが大事なのではないか。

◆ 宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩・・・「雨にも負けず、風にも負けず・・・」で始まるあの詩の最後の言葉は「日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなに『デクノボー』と呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず そういうものにわたしはなりたい」と結ばれています。「デクノボー(木偶坊)」とは体が大きいだけで、「役立たずの人形」という意味ですが、奇妙なことに宮沢は「そういうものになりたい」というのです。このモチーフになった人物が、宮沢の友人であり、斎藤宗次郎という実在する一人のキリスト者だったことが近年明らかになりました。斎藤宗次郎は内村鑑三の影響を受け、信仰を貫いたため冷遇され、失職し、不遇な生活を送りました。宮沢の理想の人物は、偉大な英雄ではなく、「誰からも褒められない」役立たずのデクノボー、「ウドの大木」と言われ、軽蔑されるような人物でした。

◆ カナンの女の物語から、今自分が持っているものと向き合い、認めること、言い換えれば積極的に自分の弱さを開示するという発想、それが新しい関係を生み出す、信頼の関係を生み出すのだということを思わされるのです。相手の完璧さや強さではなく、弱さや破れを隠さず向き合ってくれるから安心や信頼をその人に抱くのです。イエスは十字架にかけられ息絶えました。「悲しみの人で弱さを知っていた」イエスの「打ち傷」こそが、平安をもたらすことを私たちは知っています。そこに神は共におられることを私たちは示されています。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」カナンの女は、自分の置かれた現実、限界をさらけ出しながら、「パン屑はいただくのです」と語りました。そして彼女の今に神は深く共感してくださる、イエスもその神に共鳴し、「あなたの信頼に満ちた振る舞いは大したものだ」と応じたのでないでしょうか。その時彼女の娘は癒されたと物語には記されいます。

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