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2021年2月14日(日)説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2021.2.14 マタイによる福音書14:22-36 「嵐の日、波たける湖で」  望月修治 

◆「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
 弟子たちは舟でガリラヤ湖を渡っていました。おりしも突風が吹いて大しけとなり、舟が沈みそうになりました。弟子たちが漕ぎ悩んでいると、イエスが湖の上を歩いて近づいてきたというのです。それを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖に震え上がりました。そのときにイエスが弟子たちに言った言葉が「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」です。「ちょっと待って下さい」と正直思います。陸からかなり離れた湖上で、嵐によって舟が沈みようになったら、おびえてうろたえるのは当然です。信仰があろうがなかろうが、怖いものは怖いのです。

◆ この物語で読む者の思いを引きつけるのは、湖の水面を歩いて弟子たちに近づいたというイエスの姿です。人が水の上を歩く、それは奇跡です。人は奇跡に惹かれます。奇跡を行うから特別な存在、神に近い人、あるいは神の子だと受けとめ、その奇跡行為の不思議さが人を信仰に導くと思い、それを期待し、求めます。奇跡に出会って心が燃えて信仰に生きようと決意する。そして折にふれてそういう体験をすることを願い、それによって心を燃やされ信仰生活が継続できる、という理解の仕方があります。
◆ しかし、はたしてそうなのでしょうか。今日の聖書の箇所はそのことを問いかける箇所の一つです。湖の上をイエスが歩いて舟の中にいる弟子たちの方に歩いてきたという奇跡的な出来事に直面した弟子たちはそれがイエスだとはわからなかった。幽霊だと思って非常に恐れます。このすぐ前に、弟子たちはイエスが五千人を超える人たちの空腹を満たすという奇跡的行為を目の前で見ています。けれどもそれからまだ半日程度しか経っていないのに、湖の上を歩いて近づいてきたイエスを幽霊だと思ってしまった、イエスだとは分からなかったというのです。弟子たちは奇跡を行うイエスを間近で見ています。にもかかわらず、ガリラヤ湖での嵐の中でイエスを見た彼らは恐れるのです。このことは、奇跡的な出来事を体験することが、その人を深く神に出会わせ、信仰を養うのではないことを示しています。

◆ この物語は湖の水面を歩くという奇跡的な行為にポイントがあるのではなく、「間」すなわちイエスが弟子たちを強制的に群衆から引き離し、さらに舟でガリラヤ湖の向こう岸に向かわせることで作り出された「間」、距離に重要な意味があるのだと思います。福音書記者のマタイは、イエスが弟子たちに背を向けて山に登ったと書き記し、弟子たちとイエスとの間に距離ができたことを印象づけています。この距離は意図的に作り出された距離であり、間です。ですからイエスが弟子たちとの間に作り出した距離、これには意味があるはずです。

◆ イエスと弟子たちとのつながりにおいて、距離が開くことで明確になることは何でしょうか。言い方を変えれば、イエスが弟子たちと一緒にいて距離が開いていない状態では分からないもの、あるいは見えにくいものは何でしょうか。そのことに関して今日の物語を読んで気付かされるのは、イエスと弟子たちとのつながりにおいて近づいてくるのはイエスだということです。弟子たちの側がイエスに近づくのではなくイエスが弟子たちに近づき共にいるというつながりの作り方です。しかもその近づき方は湖の水の上を歩いてでも、ということです。水の上を歩くということは、人間には不可能なこと、つまりほとんど解決が困難な状況というものを象徴的に示しています。イエスはそのような状況であっても近づいてこられる。その働きを届けて下さるということです。さらに言えば神はそのような仕方で私たちの思いを超えて働くのだということです。

◆ しかしながら人はこの神の働き、イエスの働きを受け止められず、不安や恐れにしばしば駆られるのです。ペトロの姿はそのことを物語っています。舟に近づいてくるのが幽霊ではなくイエスだと分かった時、ペトロは「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言って、水の上を歩き出しました。しかし途中で怖くなり沈みかけたとあります。そのペトロに対してイエスが言ったのが「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉でした。

◆ 「信仰」はピスティスというギリシャ語を訳した言葉です。ピスティスを「信仰」と訳すのは聖書独特の訳し方なのです。もともとの意味は「信頼」です。今日の箇所の場合、ピスティスを「信仰」と訳すよりも、この言葉の本来の意味に立ち返って「信頼」と訳した方がよいと思っています。「信頼」という訳が固いのなら「安心して心からおまかせする」と訳してはどうでしょうか。「信仰の薄い者よ」とは「もっと安心してまかせてくれたらいいのに」ということです。

◆ 逆風と波に悩まされ、追いつめられて途方に暮れている状態にある者の所に水の上を歩いてまで、ということは「これは無理だ」と判断してしまうような状況であってもということです。それでも断念することなく近づいてきて一緒の舟に乗る、そのように神は働いてくださる、そのことへの信頼が足りませんね、もっと安心してまかせたらよいのにということなのです。でも人はそのような状態に立ち至った時、神の働きを受けとることなどどこかへ飛んでしまいます。しかしそのようなときにこそ、私たちの方に近づいてくる働きが必要です。私たちがたぐり寄せようともがくのではなく、湖の上を歩いてでも近づいてきて「恐れることはない」と呼びかけ働く方の働きが必要です。自分たちの力だけで関係を押し広げようとしたり、こじ開けようとするのではなくて、いかなる状況の中でも近づいてきて呼びかける働き、力があることを見失わないでいてほしいと告げる世界、働きがあることを知っていたいのです。

◆ 関係は一方が変われば動き始めます。神は自らが変わり動くことでそのことを示されたのだと聖書は語ります。神と人間との関係で変わったのは神です。十字架にかかったのは私たちではなくイエスです。罪に生きる側の私たちではなく神の側で十字架を負ったのです。そしてそのことで関係が動き出しました。神の国はあなたがたの間にある、神は私たちの間で働くと聖書は語っています。ただしそれはわたしとあなたは何も変わらないで、ただその間で神が忙しく働いてくださって関係を整えてくださるという意味ではありません。私が変わることを神は促し、そしてその変化を用いて関係を動かすのです。そうでないのなら弟子たちを湖の向こう岸に向かわせ、距離を作り出す必要などないはずです。岸辺にいてイエスは調整すればよいはずです。

◆ 人は他者との様々な関係の中で生きています。そこには、もう今さらこの関係を動かすことなど出来ないとつぶやく声が満ちています。しかし、それでも変わりたい、変えたいと人はどこかで願っています。そのときどちらかが変わらなかったら関係は動き出しません。神は私たちが変わることを求めます。ただし最初に動くのは神です。神がまず私たちに近づき、動き出すことを促すのだと語るのが今日の物語です。その関わり方を私たちは自分と自分の関わっている人たちの間に写しとり、歩むのです。変わりたいと願い踏み出すなら関係は動き出し、新しい風が私たちの人生の中に流れ始めるよ、と約束する神に信頼してみませんか。そのことを確かめるために、まず自分から動きだしてみてはどうでしょうか。神はそこに自らを啓示するのです。

2021年2月28日(日)主日礼拝  [主日礼拝のご案内]

2021年2月28日(日)
復活前第5主日
説 教:「内輪もめ論争」
    牧師 望月修治

聖 書:マタイによる福音書12章22〜32節
招 詞:イザヤ書35章1〜2節
讃美歌:24, 471(1番・2番), 128(2番・3番), 91(1番)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※上記のフォームへの申し込みは、1回のみで構いません。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まりますので、視聴の準備をして礼拝のはじまりをお待ちください。
※可能であれば、お手元に聖書・讃美歌集を用意して礼拝にご参加ください。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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