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2015年3月8日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2015年3月8日(日)午前10時30分
受難節第3主日 
説 教:「あなたが背負うもの」
 牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書
 9章18~27節(新約p.122)
招 詞:イザヤ書63章7-8節
讃美歌:26、59、201、511、91(1番)
交読詩編:107;1-16(p.119下段)

※次週の礼拝は同志社女子大学栄光館ファウラーチャペルにて行われます。
  どなたでもお越しください。

2015年2月22日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2015.2.22    ルカによる福音書4:1-13 「試してはならない」          

◆ 先週の水曜日、2月18日からレント(受難節)に入りました。今日の箇所には、このレントの期間が40日と定められる由来となっている荒れ野の誘惑の物語が記されています。イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、荒れ野の中を霊によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられたと記されています。

◆ イエスが受けた誘惑は3つです。1番目の誘惑は、40日間の断食を終えたすぐ後をねらいすましたかのように、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」というものです。2番目の誘惑は、高いところから世界のすべての国々をイエスに見させた上で、「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言ったというものです。高いところにイエスを引き上げて悪魔が言い放った言葉「わたしを拝め」、これこそ、誘惑者としての悪魔が最初から狙っていたことでした。自分の足下にイエスをひれ伏させる。悪魔(ディアボロス)とは「そしり、中傷する者」という意味です。一度でもこの誘いに乗ったら、その途端、悪魔はその人を「そしり、中傷する者」に豹変し、支配するのです。神の子なら石をパンに変える力を示せ、わたしを拝め、と誘惑した悪魔は、その次に神がお前を生かすかどうか神の力を示せと誘い、こうささやきます。3番目の誘惑です。「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」

◆ イエスを誘惑しようとする悪魔が用いているキーワードは「あなた」です。新共同訳聖書では「あなた」がかなり省略されてしまっているのですが、この箇所は「あなた」を省略せずに訳しだしておいた方がその意味を読みとる上でヒントになると思います。たとえば3節は「神の子なら」となっていますが、ここは略さずに訳せば「あなたが神の子なら」です。7節は「あなたが」が訳し出されています。「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」それから9節「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」とありますが、省略せずに訳すなら「あなたが神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」となります。このように略さずに訳して読んでみますと、ここの登場する悪魔は、誘惑の手段としてなによりもまず「あなたのために」という姿勢を一貫して押し出していることが分かります。悪魔はイエスに向かって「あなたはそれができる」「みんなあなたのものになる」「天使たちは手であなたを支える」という具合です。「あなたは/あなたの/あなたに/あなたを」とささやき続けるのです。悪魔はいつも「あなたのことを」「あなたのことだけを」考えているのですよとささやきかけてくるのです。裏を返せば、悪魔にとって一番あしらいやすい人間は「いつも自分のことだけ」を考えている人間だと言えます。

◆ 聖書が人間の基本的な在り方として提示し続けているのは「共に」ということです。創世記に記された天地創造の物語で最期に創り出されたのは人間ですが、人の創造はアダムひとりを創り出すことでは終わりませんでした。エバというもう一人の人間、つまり共に生きる相手が創り出されて完成するのです。そして神は人と人とが共にいるその間に働くのだと聖書は語っています。(ルカ17:20-21) 私たちは共にいることで創り主である神の働きを生き生きと覚えるのです。誘惑はこの神が働く場から人を引き離すのです。「あなたがた」と悪魔は呼びかけません。「あなたは」と呼びかけるのです。人を一人にするのです。あなたは自分の力で何者かであることが出来る、価値ある者として存在できる、生きている意味を獲得できる、そうささやきかけるのです。イエスにささやきかける悪魔の言葉の中に「隣人への視点」はありません。あるのはただ「あなた」のみです。これは決定的な欠けです。根本的な欠陥です。イエスはこの決定的なものが欠けている生き方への誘いを退けた、それが荒野でイエスが悪魔の誘惑にあったという物語が語ろうとしている大切な内容です。

◆ 指揮者の佐渡裕さんが「棒を振る人生」という本を書いておられます。佐渡さんの活動は多岐にわたっています。ヨーロッパや日本のオーケストラを指揮し、今年9月からは、オーストリアで100年以上の伝統をもつトーンキュンストラー管弦楽団の音楽監督に就任することが決まっています。 佐渡さんが自分の音楽人生にとって一つの転換点になったと言われていることがあります。それは兵庫県立芸術文化センターの芸術監督を務めたことです。兵庫県芸術文化センターは1995年の阪神淡路大震災から10年を経た2005年に、復興のシンボルとして建設されました。阪神淡路大震災が起こるまで、自分の好きな音楽を一生やり、それが評価されたりされなかったりしながら、指揮で出演料がもらえることに日々、感謝をして生きてきた。そういう意味では音楽は「自分の中にあるもの」だった、と佐渡さんは書いておられます。しかし震災が起こったときに、指揮者としての自分よりも、人間としての自分が問われました。音楽家は無力だという思いの中で動けなかった。そのことが自分の中に後ろめたい思いを残しました。そんなときに、兵庫県知事から「劇場を中心に、この街を震災前よりもずっと優しく、ずっとたくましい街にしてほしい」という依頼を受けました。街の人たちに、劇場があることで震災以前よりも自分たちの街が豊かになっていることを実感してもらうには時間がかかりました。地元の小学校を回って音楽教室を開いたり、吹奏楽を教えたり、オペラのプレイベントや劇場前広場でのクリスマスツリー点灯式など、地域に劇場を根付かせ、音楽の価値を理解してもらうためのさまざまな試みを佐渡さんは続けました。確かにお風呂に入らなくても、コーヒーを飲まなくても人は死にません。音楽を聴かなくても人は生きていけます。でもやはり、それらがあることで人は生きる喜びをより深く味わうことができる。佐渡さんはそのことをこの街からあらためて教わったといいます。

◆ しかし2011年3月11日、東日本大震災で佐渡さんは再び打ちのめされました。大災害の被害を前にして、何かをやらねばならないのに何をすればいいのか分からない。そんな無力感と戸惑いに再び襲われました。けれど東北に行って小さな演奏会を開くと、涙を流して喜んでくれたり、元気をもらったと言ってくれる人たちがいました。演奏会に来てくれた人たちは、亡くした家族や友人のことを記憶から消し去って音楽に感動しているわけではない。打ちのめされても再び立ち上がる、そこに音楽は深く関わることができる。人が音楽をやる意味は、人が一緒に生きていくことの喜びを確かめるためなのだということを被災の地から学んだと佐渡さんは書いておられます。そしてこう記しておられます。「音楽の神様は、ベルリン・フィルを指揮しているときも、被災地で地域の人や子どもたちと歌っているときも降りてくる。人によって価値観は違い、生き方も異なるが、一緒に生きること、それを喜びとすることが人間の本質だと思う。それぞれが自分らしい音を出しながら、それでいて人の音に耳を傾けることで美しい響きが生まれる。音楽をすることによって、人と人との違いやぶつかり合いをポジティブに捉えなおすことが出来る。僕は無宗教だが、もし神様がいるとしたら、音楽は神様からの贈り物なのだ。『人間は一緒に生きていくことが、本来の姿なんだよ』ということを人間に教えようとして、神様は音楽をつくったのではないかと思う」と。

◆ イエスが荒れ野で闘ったのは、「一緒に生きていく」ことから人を遠ざけて、生きる意味や存在する価値は「自分の中にある」のだとささやき、それが「あなたのため」だと思い込ませる誘惑に対してであったのだと思います。

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