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2019年2月24日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.2.24 ルカによる福音書5:12-26 「冒涜の構図」 望月修治      

◆ 新約聖書の4つの福音書の中でマルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書は、「共観福音書」と呼ばれています。マタイ福音書とルカ福音書が最初に書かれたマルコ福音書を基礎資料としてそこに独自の資料を加えて書かれたものだからです。ですから共通した記事が用いられていることも共観福音書の特徴です。ただしそれらの共通した記事、物語を用いて福音書を編集する仕方は異なっていて、それぞれ特徴があります。マタイによる福音書はイエスが語った言葉によって救い主としてのイエスの働きを強調しています。例えば5章で「山上の説教」が語られていますが、その後に、イエスが嵐を沈めるとか、悪霊に取り憑かれた人を癒すとか、中風の人を癒すといった奇跡物語がまとめて置かれています。ですからマタイにとって奇跡はイエスの偉大さを追認する役割以上のものではありません。これに対してルカ福音書では、6章でマタイと違い、山上ではなく、「山から下りた平らな所」(6:17)すなわち「平野で」イエスが教えたという記事が記されています。そして教えの後ではなく、イエスの教えの前に奇跡物語がまとめて置かれています。つまり教えは奇跡の意味を説明する役割を担わされているということになります。

◆ 今日の箇所に記されている「重い皮膚病を患っている人をいやす」それから「中風の人をいやす」という奇跡物語もその中に含まれています。ルカはイエスが漁師たちを弟子にするという出来事のすぐ後に、この二つの治癒奇跡物語を語っています。ですから12節の「ある町」というのは、イエスに従った弟子たちと一緒にイエスが初めて訪れた町という設定になっています。その町に「全身重い皮膚病にかかった人」がいました。旧約聖書のレビ記(13-14章)の規定によれば、「重い皮膚病にかかった人」は汚れた者とされ、宿営の外、つまり人が住む町の外に離れて住まなければなりませんでした。当初は感染を防ぐための医学的処置であったのですが、やがて「重い皮膚病にかかった人」を偏見と差別の対象とする社会の傾向を生んでしまうことになりました。レビ記13-14章を読んでいて気づいたのですが、少なくともレビ記の規定に関する限り、重い皮膚病にかかるということを、罪への罰とか神の怒りによるものとみなすという見解は見当たりません。むしろレビ記の規定では、「重い皮膚病」は治る可能性があることを強調し、祭司によって「清い者」と判断される条件を詳細に規定しているのです。それだけではなく次のように規定されています。「もし、この皮膚病が皮膚に生じていて、祭司が見るかぎり、頭から足の先まで患者の全身を覆っているようならば、祭司はそれを調べ、確かに全身を覆っているならば、『患者は清い』と言い渡す。全身が白くなっていれば、その人は清いのである」(レビ記13:12-13)と規定されています。全身が白くなるというのは、皮膚の表皮が剥離して白い部分が残る状態のことであり、それは治った証拠とみなされたのです。

◆ しかしイエスの時代には事情が大きく違っていました。重い皮膚病は罪への罰として神から下されたものであり、そのレッテルは生涯背負って生きなければならないとされていました。「重い皮膚病にかかった」この人は、極度に進行した病を負ってこの町にきたのです。彼の住まいは「宿営の外」すなわち町の外にありました。けれども止むを得ず町に出入りする場合には、着ている衣服を脱いで、その頭を現わし、口ひげを覆って「汚れた者、汚れた者」と呼ばわらなければならないと規定されていました。やむなく人の中を歩くとき、自らを「汚れた者」と呼び続けなければならないというのです。なんと過酷な運命を背負わされたことかと思います。他人に接触することによって、自分の「汚れ」が誰かに移らないように、あえて自分の身を屈辱にさらさなければならなかったのです。町の中に住まいを持たず、肉親との絆も引き裂かれた孤独の中に置かれ、しかもそのことで一層の蔑みを町の人たちから受けるのです。

◆ 全身重い皮膚病にかかった人がこのようにしてまで屈辱に耐えながら、どうしてこの町に来たのか。その理由はただ一つです。イエスがおられるからです。イエスがこの町に来られたからです。イエスに会いたい、イエスに会わなければ、ただその思いだけに押し出されて彼は茨の道、自らを「汚れた者」と呼ばわらなければ歩けない道を歩み続けたのです。イエスに出会ったとき、この人は「きよめてください」とは言いません。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言います。「主よ、あなたがそれを意志してくだされば」「そうしようと思ってくださるのでしたら」とだけ言うのです。この心低き嘆願に、イエスは口を開く前に、「手を差し伸べてその人に触れた」とルカは記しています。この時、イエスは重い皮膚病にかかった人の痛みの全てを自らに引き受けようとされたのではないか。その思いが、言葉を語る前に手を差し伸べるという性急なばかりの行動となって一気に溢れ出たのではないか、と思えるのです。

◆ イエスはまず動きます。それから言葉を発します。「よろしい、清くなれ」。この箇所を聖書協会共同訳聖書では「私は望む、清くなれ」と訳しています。イエスの言葉は事実から生まれます。ガリラヤを旅し、そこで出会った人の現実に向き合ってイエスは神の働きを解き明かし、語った人です。福音書記者のヨハネは福音書の冒頭で「言葉は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」と記しています。肉体を伴わない言葉は力になりません。肉体を伴うとは隣人と出会うことです。日常の小さな出会いから言葉は生まれます。イエスは出会った人の言葉に深く聞き入るのです。深く、十分に聞いたら動かざるを得なくなります。イエスという方は、動かなければならないという使命感や義務感から動いた方ではありません。出会った人の現実に向き合って突き動かされ、たぎる思いで関わり続けられたのです。聖書はそのイエスの思いを「憐れむ」という言葉で語っています。

◆ 「憐れむ」(スプランクニゾマイ)は「はらわた」「内蔵」という言葉から来ています。「はらわたがちぎれる想いに駆られて」「たぎる思いで」関わるということです。放蕩息子の譬え話では放蕩息子を迎える父親を通して、神さまはこういう方なのだということを語っているわけですが、それが「憐れに思い」とありますから、神さまははらわたを突き動かされる方なのだとイエスは示したのです。

◆ 今日の箇所にも、はらわたがちぎれる想いに駆られて行動するイエスの姿が「手を差し伸べてその人に触れ」るという言葉で語られています。「触れる」という言葉は原語で「ハプトマイ」というのですが、この言葉は「しっかりと抱く」「抱きしめる」という意味なのです。触ったとか、触れたなどというニュアンスではありません。ですから、全身重い皮膚病にかかった人に「手を差し伸べて触れた」というのは手を差し伸べて「抱きしめた」ということです。

◆ 行動を起こさせるもの、それは痛みの共感、共有です。イエスの主だった行動が、いつも「はらわたを突き動かされる」痛みの共感によって引き起こされていることを福音書の物語は明らかにしているのです。誰でも人の苦しみを目のあたりにしたら痛みは感じます。しかし、そのことに大して重きを置かないのです。もっと知的で冷静にならなければいけない、などと考えて、引いてしまうわけです。しかしイエスは出会った人を「憐れむ」のです。神は人を憐れむのです。はらわたを突き動かされる方なのです。

2019年3月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年3月10日(日)午前10時30分
復活前第6主日
説 教:「拒まれた取り引き」
牧師 望月修治
聖 書:ルカによる福音書4章1〜13節
招 詞:申命記6章13〜15節
交読詩編:66;1-12
讃美歌:25,155,280,536,91(1番)
○礼拝場所:静和館4階ホール

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