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2018年5月6日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2018.5.6 ヨハネによる福音書16:12-24 「イエスの進退」      望月修治    

◆ 十字架と復活、これはキリスト教会の信仰の基盤です。キリスト教の教会は十字架で死んだイエスがキリスト、救い主、主であると受けとめ、信じて告白していった人たちが集まって礼拝をしたところから始まっています。しかしながら一人の人の死の意味を理解する、納得するというのはそう簡単なことではありません。イエスと同じ時代を生き、行動を共にしてきた人たちにとっても、イエスが十字架にかけられ死んだという事実をどう受け止めたらいいのか、皆目わからず、ただ怖れ、不安に揺れていたことを使徒言行録の記述などからも知ることができます。それはイエスの死から30年、40年と経過した後も拭いきれないままであったのです。福音書記者たちも拭いきれない「なぜ」に答えようとしてイエスの受難物語に多くのスペースを割いて福音書を書いています。

◆ イエスの生涯は晩年の3年間に集約されていきます。その3年間は最後の1週間、さらに最後の夜と十字架の出来事に集約されて行きます。福音書記者のヨハネはイエスの生涯をたどりながら、特に最後の夜の出来事に多くのスペースを割いて描いていきます。決別のときを迎えて、文字通りすべてを注ぎだすかのようにイエスは語り続けます。ヨハネ福音書は13章から、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語った決別の言葉をずっと書き記しています。このように長いスペースをとってイエスの最後の言葉を記したのは、この福音書が書かれた紀元90年代にキリスト教会が、ユダヤ教の側から異端だとして迫害されるようになり、それまで集まりの場としていたユダヤ教の会堂から追い出されたからです。会堂を追われるということは、ユダヤ社会から追放されることと同じでした。ヨハネが属していた教会の人々が選択を迫られたのは、イエスを主と告白する信仰にいきるのか、それとも会堂から追放されることを恐れてユダヤ教の枠の中に再び戻っていくのか、そのどちらを選ぶかということでした。ユダヤ教の側からの激しい迫害にさらされる中で、教会の人たちはイエス・キリストが見えなくなっていくという危機に立たされていったのです。

◆ 16節に記されている「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見るようになる」というイエスの言葉は、このような状況に置かれた教会の人たちにヨハネが書き記したものです。「見なくなる」という、その言葉そのものに不明なところは何もありません。しかし「見なくなる」とは具体的には何を指しているのか。この簡単な言葉も弟子たちには謎めいて聞こえたはずです。戸惑う弟子たちに「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とイエスはさらに続けます。「見なくなる」ことがそもそもどういう事態なのかが分からなければ、「見えるようになる」という言葉も分かりようがありません。

◆ 弟子たちは戸惑い、「父のもとに行く」(16:10)というイエスの言葉と重ね合わせて、おそらくお互いにブツブツ言い始めました。弟子たちは混乱しているので「何のことだろう、何を話しておられるのか分からない」としか言えませんでした。言いよどむ弟子たちをみれば、彼らがイエスの言葉の真意を聞きたがっていることはよく分かります。その弟子たちにイエスは次のように語り始めました。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」(20節)。それがイエスの回答でした。イエスは弟子たちの聞きたいと思っていることに直接答えることはしていません。弟子たちからみれば的外れ、さらに混迷の中に追いやられた、という思いだったはずです。

◆ なぜ「泣いて悲嘆に暮れ」なければならないのか、その悲しみには何か意味があるのか。さらにどうして「その悲しみが喜びに変わる」のか、混乱した弟子たちには理解できませんでした。イエスはここで妊婦のことを語ります。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。」しかし子供が産まれると、母親になった女性は、その喜びのために「もはやその苦痛を思い出さない」と語るのです。「一人の人間が世に生まれた」という事実の重みは圧倒的です。そして弟子たちもそのことはよく分かるはずです。弟子たちの「悲しみが喜びに変わる」のもそれに似ているのだとイエスは語ります。妊婦の産みの苦しみと子供の誕生の喜びとは切り離すことができない。そしてイエスが弟子たちから奪われ、そのことで弟子たちが「泣いて悲嘆に暮れる」ことも、同様に避けることはできません。弟子たちの喜びの源はイエスが共にいてくださるという事実にあることを、弟子たちは悲嘆の中でこそ味わうことになるからです。

◆ 悲しみが喜びに変わる転換点、イエスが例えた出産の時、それは復活の時であり、その時にはあなたがたは心から喜ぶことになる。そしてその喜びをあなたがたから奪い去る者はいないのだとイエスは語ります。そのことは確かによく分かるのです。よく分かるのですが、「しかしな・・・」と思ってしまう自分がいます。理屈としてはよく分かる。けれども復活したイエスと出会うとは、現実的にはどのようなことなのか。私たちは今生きている状況の中で、どういう形で「またしばらくすると、わたしを見る」と語られていることを自分の体験とすることが出来るのだろうかと思いが巡ります。

◆ 40代の女性が夫を亡くして8ヶ月が過ぎて、夫の死と向き合いながら心の思いを綴った投書が以前、新聞に載っていました。夫の死を受け止めきれず、八ヶ月たっても、感謝の気持ちはあるけれど、「ありがとう」の言葉は出て来ませんでした。「どうして先に逝っちゃうの、私をおいて逝かないで。」責める言葉ばかりが出てくる。そんなある日、見知らぬ人に声をかけられました。「あなたのご主人に励まされ、入院生活に耐えることができました。ご自身も大変な病気でありながら、病棟の人たちに『頑張れ、早く家に帰れるように』と励ましていた」と話してくれて、何度も「ありがとう」と手を振ってその人は去って行きました。夫が病床で同じ病棟に入院している人たちを励まし、その励ましに支えられて病気が癒え退院した人がいた。「あなたは一人ではないですよ」とその人を励ました。夫はそのように生き、そして旅立った、そのことを知ったとき上地さんの「なぜ」という問いは納得を得ました。

◆ イエスは「しばらくするともうわたしを見なくなる」とは言いました。しかし「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とも言いました。これは十字架の出来事によって全てが終わりだということではありません。「いつも一緒にいる」と約束し、宣言しているのです。この世において、人は愛する人、大切な人、かけがえのない人との別れの時を持つことを避けることはできません。その悲しみの中に立たざるを得ないときが誰にも訪れます。あるいは訪れて来ました。そのあなたに「一人では放っておかない」「一緒にいる」とイエスは約束したのです。だから「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」のだとイエスは言い切るのです。それが復活ということの意味だとわたしは思っています。

2018年5月20日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年5月20日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第1主日 ペンテコステ礼拝
説 教:「言葉が心の戸を開く」
       牧師 望月修治
聖 書:使徒言行録2章1〜11節
招 詞:ヨシュア記 1章8〜9節
交読詩編:122
讃美歌:24,342,346,542,91(1番)
聖歌隊賛美:347「たたえよ、聖霊を」
  「Look At The World」
転入会式・聖餐式を行います。

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