SSブログ

2018年5月13日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2018.5.13  イザヤ書45:1-7  「一なる神」(髙田)               

◆「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒1.2)。その復活から40日目、イエスは使徒たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と語られると、「彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。先の木曜日がイースターから40日目のこの昇天日で、今日はこのキリストの昇天を覚える礼拝となっている。

◆ イエスが十字架につけられて復活されたのは、ユダヤ教の春の祭りであるペサハ、過越の祭りのおりであった。そこから50日目にはユダヤ教のシャブオットという祭りが持たれる。春の収穫、特に小麦の収穫を感謝する祭りであるが、歴史の中で、シナイ山でイスラエルの民に神が律法を与えた日であると考えられるようになった。ペサハとシャブオットという二つの祭りの間の50日には、エジプト脱出からシナイ山でモーセが律法を受け取るまでの先祖の歩みが思い起こされる。使徒たちも復活のイエスと共に、このイスラエルの歴史に思いを向けただろう。

◆ 冒頭に、復活のイエスは40日、弟子たちと共におられ、そして天に昇られたと申し上げた。40は象徴的な数字である。何か新しいことが始まる、その前の産みの苦しみの期間を聖書は40という数字で表す。イエスの昇天までの40日という数字も、歴史の新しい段階を示している。新しいこととは何か。それはイエスの約束の言葉に示されている。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。イエスは天に昇られ、その10日目にペンテコステの日が来て、使徒たちに聖霊が与えられ、教会が生まれた。

◆ これには、ペサハからシャブオットまでの歩みが重なってくる。始めに過越という圧倒的な奇跡によってイスラエルの新たな道が切り開かれた。それまで神は、選ばれた人にだけ語りかけ、自らを明らかにしてきた。しかし、今や神の姿が、栄光が民全体に示されたのである。神は全会衆を雲の柱と火の柱で導き、葦の海を二つに分けて渡らせ、天からのパンで養った。中には、不平を言うものもいたが、そうして示された神の働きが会衆を取りまとめ、整えていった。そしてシナイ山で律法を与えることで、会衆は一つの国民として、神の民として立てられることになったのである。

◆ 同様に、復活のイエスを通じて神は、ちりぢりになっていたイエスの弟子達を再び集められた。福音書によれば、イエスの復活を疑うものもいた。しかしその弟子達も、40日の歩みのなかで復活のイエスの言葉によって一つにまとめられ、そしてイエスの昇天を目撃することでいよいよ整えられた。イエスの昇天は、わたし達の天への道を切り開くものであった。イエスを初穂として、永遠の命への道が開かれた。加えて、キリストの昇天はまた、キリスト再臨の希望でもあった。そうしてペンテコステの日、神はいまや律法ではなく、聖霊によって人を導く神として、その姿を示された。

◆ このペンテコステへと向かう一週の始め、キリストの昇天を覚える本日の礼拝に与えられたのは、第二イザヤとして知られる箇所、バビロン捕囚の最中に立てられた預言者に与えられた言葉である。バビロン捕囚は、聖書の歴史において、出エジプトの出来事とイエスの出来事の中間にある出来事であり、過越と復活のつなぎ目となっている出来事である。

◆ 過越の出来事によって捕囚状態から解放され、神から律法を与えられたイスラエルの民は、厳しい旅を経て約束の地に入った。そうして国を築き、遂にはダビデやソロモンといった王のもとで、繁栄の時代を迎えるが、その後、北王国はアッシリアによって蹂躙されて滅亡し、南のユダ王国もバビロニアによって滅ぼされた。都の城壁は崩され、宮殿も神殿もが焼かれ、略奪され、多くの者が殺され、生き延びたものも敵の国に連行されていった。

◆ しかしこの破局は、イスラエルに新たな道が切り開かれるための産みの苦しみの時ともなった。このバビロン捕囚においてこそ、それまではバラバラの文書であった伝承がモーセ五書としてまとめられた。異国の地にあって、囚われた人々は自らのルーツを問わされ、思い起こし、研究をして、書き記していった。そうして人々が思いを向けさせられた神は、かつてエジプトでの捕囚状態から先祖を解き放ち、約束の地に導いた神であった。

◆ そのような中、第二イザヤはその神の新たな姿を見て、これを語ることができた。バビロンには多くの他の神々やその偶像があったが、彼の見た神は、それら一切を凌駕する唯一の神であった。「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない」。あらゆる神々やその偶像を超える一人の神、今やその神はすべての人の神である。第二イザヤはこの神が、ペルシアの王キュロスを選び、自らの道具として用いられると言う。「わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった」。知られないうちにでも、一切を自らの計画のために用いられる神の姿、これを第二イザヤは見た。

◆ そうして第二イザヤが語ったとおりに、このキュロスによってバビロニアが打ち倒されると捕囚の民は解放されて、エルサレムに戻ることになる。人々はそこに神の力を見ただろう。人々は捕囚地で書き記したモーセ五書を携えてエルサレムに戻り、新たに神殿を建て、律法が公布され、そうしてイエスの時代にまで続くユダヤ教が生まれた。しかし、これらのことはまた、第二イザヤの見た神をある意味で制限することでもあった。バビロンにおいても人々を導いた神は、いまやエルサレムの神殿に閉じ込められて、律法に規定された祭儀を媒介にして近づきうるというように制限された。

◆ 唯一の神は、世界の創造者である。その神は「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者」として示された。一なる神が光と闇を、平和と災いを、つまり一切を創造したのである。そのような神は、多神教や、善の神と悪の神を想定する二元論を寄せ付けない。その神の姿がまた同じ時代に、創世記冒頭の天地創造の物語を生み出した。「光あれ」と言われ、無から言葉で世界を創造する唯一の神は、決して見えず、しかしそれゆえにこそ、あらゆるところで礼拝されうる神である。

◆ そして、その時がやってきた。「時は満ち、神の国は近づいた」。荒れ野での40日の試練の後にイエスは語った。その人は第二イザヤの見た神の姿を再び力強く語り、貧しい者、律法で呪われた者、抑圧された者の友となり、その愛を生きた。しかし彼は十字架につけられ殺される。これもまた産みの苦しみであった。十字架の死から復活という新しい命が生まれた。光と闇を創造される神の力がそこに示された。復活のイエスは天に昇り、今や神は、律法ではなく聖霊によって教会を立て、人種、民族の隔てを超えて、すべての人をこれに招いて、導かれる。

◆ 第二イザヤの見た通り、そのような神は神を知らぬ人の神でもあり、神はそうした人々をも導いておられる。そのような世界において、神の歴史を語り伝え、礼拝を守り、その信仰を継承する器として、教会が選ばれ、そうしてわたし達が立たされている。わたし達もまた、聖霊が与えられたことを祝うペンテコステを経て、いよいよ一つとなって新たな道へと歩み出していくものでありたい。

2018年5月27日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2018年5月27日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第2主日
説 教:「相続人の義務」
       牧師 望月修治
聖 書:ローマの信徒への手紙
8章12〜17節
招 詞:申命記6章4〜7節
交読詩編:97
讃美歌:25,120,201,12,91(1番)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。