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2022年2月27日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書2章1〜12節 「眠るイエス」 大垣 友行

◆ 月報に連載されているエッセイ「教会万華鏡」で、「眠るのが得意」というお話しが出てきます。わたし自身はどちらかと言うと不得意なほうで、寝付きがあまりよくないほうかもしれません。わたしの勝手な思い込みですが、どちらかと言うとイエスは、眠るのが得意なタイプの人だったのではないでしょうか。細かいことにこだわらない、というような豪快なところがある方です。ましてや、今日の聖書の物語では、舟が水浸しになるほどの嵐の中で、悠長に眠り続けていたということですから、おそらくわたしの推測は当たっているような気がしています。

◆ 今日の場面は、ガリラヤで数々の奇跡を行ったイエスと弟子たちが、湖を渡って、異邦人たちが住む、対岸の地域に向かおうとしているところです。そこで、彼らは運悪く、ひどい嵐に見舞われてしまいます。あくまで現在のサイズですが、ガリラヤ湖は琵琶湖の6分の1くらいの大きさです。意外に大きいと感じるのですが、そんな湖を渡っている時に、溺れるかもしれないと感じるほどの嵐に見舞われたら、相当恐ろしいことと思います。どんな眠りの達人でも、そもそも眠り込んでいることさえできないような揺れだったと思います。弟子たちはたまりかねてイエスを起こします。イエスは風を叱って、嵐をすっかりおさめてしまいます。そして今度は別の恐怖が弟子たちを襲うという場面です。「いったい、この方はどなたなのだろう」。こんな問いが、弟子たちの間に生じてきます。つまり、風や湖を従わせることができるとは、一体どういう方なのか、という問いです。

◆ そのことの説明は、いくつか考えられます。一つは、合理的な説明です。つまり、イエスはガリラヤ湖の嵐の性質をよく知っていたので、それがどうおさまるかが分かっていた。だから、時間をみて、ふさわしいタイミングでお叱りになったのだと。またあるいは、数々の奇跡を行ったイエスのことですから、本当にそういう力がおありになった、と考えることもできます。特に、ここで叱るという言葉は、たとえば詩編で、神が「葦の海」を叱った、という件があります。106編の9節です。神の御業を讃えるために、出エジプトの出来事が歌われている部分です。神が海を「叱る」のと、ここで嵐を「叱る」のと、同じ言葉が使われています。これはつまり、神が自然を叱ったのと同じように、イエスにもそれだけの権能が備わっている、ということを意味していると捉えられます。

◆ 「叱る」ことだけでなく、「眠る」ということも興味深いです。ある解釈によりますと、それはイエスに起こる復活の出来事を、あらかじめ示しているのだというのです。マタイによる福音書では、復活の前に地震が起こります。マルコのこの場面では、嵐がそれです。嵐が起こって、イエスは眠りから覚めます。聖書では、「目覚める」という言葉は、「復活する」と同じ意味を持つ言葉が使われます。マルコでは言葉のニュアンスが少し異なっており、やや強引かもしれないのですが、興味深い解釈です。

◆ それにしましても、ここで叱られているのは風だけではないようです。弟子たちもまた、信仰の甘さを指摘されています。いずれ自分の師である人物に訪れる死と復活、それをあらかじめ見せられていたのだとしても、この時点ではきちんと理解できていないわけです。そうした弟子たちの無理解は、この場面に限りません。実際に、イエスが十字架につけられる前後、弟子たちはほとんど、恐怖のあまりイエスのもとを去ってしまっています。

◆ ここで、わたしたち自身も、信仰について問いかけられているような気がしてきます。わたしたちを取り巻いている状況は、日増しに悪化しつつあるように思われてなりません。このところ、本当に大きな争いが巻き起こっています。そしてまた、わたしたち一人ひとりが抱えている問題があります。小舟の上でなんとか波に呑まれずにがんばっている人、あるいは弟子たちのように、もう溺れそうだ、と切迫した不安を感じている人。そこに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という、イエスの言葉が響いてきます。困難に向き合うことは、とにかくそれ自身、大きな困難です。事件や争いを鎮めるわざやあかしがなくては、心穏やかでいられないのです。

◆ ですが、そのように取り乱すのは、わたしたちや、弟子たちだけではなかったようにも思います。イエス御自身もそうだと思うからです。十字架につけられる前、イエスはゲッセマネで、父なる神に向かって祈っています。御自身の運命を予感して、「この杯をわたしから取りのけてください」と言っておられます。その時イエスは、弟子たちに「目を覚ましていなさい」と命じておられるのですが、ガリラヤ湖上の時とは対称的です。本当に大きな、決定的な不安の前で、悠然と眠っていることができなかった。そして、十字架につけられた時、イエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という、有名な言葉を叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この二つの場面は、嵐に揺られる舟の上でも、主なる神に信頼して眠る姿とは本当に対称的です。わたしたち自身もまた、本当にそのような気持ちで、神様に「なぜですか」と問いたくなる、そんな状況の中にあります。

◆ ですが、わたしたちもよく知っておりますように、神様はその問いかけに答えてくださる方です。一度は十字架で死なれたイエスを復活させ、起き上がらせた方です。だからこそ、一度は離れた弟子たちも、再び戻ってきて、それぞれに苦難の道のりを歩んだのでした。

◆ 今日のガリラヤ湖のエピソードのように、そこだけ抜き出しますと、絶望的な問いかけだけが重くのしかかってきてしまうのですが、物語が指し示してくれていることにも、わたしたちは注意を払っていきたいと思います。そして、物語全体の結末までたどり着いた後に、また同じ箇所に戻ってきますと、感じ方が変わって参ります。聖書の御言葉に繰り返し繰り返し身を浸すことで、少しずつ身動きが取れるようになってくる。そうしたものだと思います。なるほど、舟の上の出来事によってだけでは、弟子たちは悟ることができませんでした。ですが、復活という究極的な出来事を通して、ついに彼らも、過去にかけられたイエスの言葉に、応えることができたのです。時間的にも空間的にも距離を取ることで、言葉の意味が自分の内に根付き、蘇ってきたということです。

◆ 何らかのテキストを、初めてパッと読んでみても、よく分からないということはしばしばあります。ですが、繰り返し繰り返し、しつこく読み続けることで、段々と意味が明らかになってきます。しばらくの間、難しい本をどこかにしまっておいたり、お昼寝の時の枕代わりにしたとしても、いつか出会い直すことができればよいのだと思います。

◆ よく分からない、よく噛み砕けない物事から、適切に距離を取るということは、とても大切なことなのかもしれません。一時は、それがとてつもなく情けないことに思えても、そうしたからこそ見えてくるものがあるはずだからです。イエスの問いかけは、はじめそれを聞く時に、わたしたちを戸惑わせる部分があります。わたしたちの状況に照らせば、やむを得ないとも思います。ですが、それでも、十字架の出来事、イエスの死と復活に思いをいたしたいものです。わたしたちは、舟の上のイエスのようには、不安のために今ゆっくりと眠っていることができないかもしれないのですが、神様は終わりの時にわたしたちをみもとに招き、安らかに眠ることをお許しになり、永遠の命を与えてくださる方です。それまでは、幾度も物語をたどり直し、目を覚ましていながら、少しずつ、それぞれに歩むべき道が示されてゆくことを願いたいと思います。

2022年3月13日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年3月13日(日)午前10時30分
復活前第5主日・受難節第2主日
於:同志社礼拝堂
説 教:「悪霊を退けて」
              牧師 髙田 太
聖 書:マルコによる福音書3章20〜27節
招 詞:詩編18編2〜4節
讃美歌:25,377(1・3節),566(1・2節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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