SSブログ

2022年3月20日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年3月20日(日)午前10時30分
復活前第4主日・受難節第3主日
説 教:「思い」
             伝道師 大垣友行
聖 書:マルコによる福音書8章27〜33節
招 詞:テモテへの手紙二 1章9〜10節
讃美歌:24,303(1・3節),511(1・4節),91(1節)
◎同志社大学卒業式のため、礼拝は集会所からのライブ配信となります。

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://sites.google.com/view/doshisha-church/

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

2022年3月13日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書3章20〜27節 「悪霊を退けて」 髙田 太

◆ 今日を含めてあと3週で、主任牧師不在に加えてコロナ禍のなかでの厳しかった一年が終わる。多くの先生方がこの講壇を支えてくださった。特に教会員である山下先生、平松先生、工藤弘志先生に、この一年を力強く支えて頂いた。心から感謝を申し上げたい。他にも吉岡先生、山本有紀先生、柳井先生、中野先生、近藤十郎先生、川江先生と同志社教会と関係を持つ先生方にお世話になった。多様な説教の在り方を経験し、同時に同志社教会の宣教の広がりを思い実感しながら、新たな牧師の着任に向けての備えをすることができたと思っている。

◆ 大垣先生も佐々木神学生も、それぞれに教会を支えてくださった。また教会員の皆さんもよくこの二人を支えてくださった。感染症の蔓延で集うことが難しい状況においても、ライブ配信を視聴する形で礼拝を支え続けてくださっている方々がおられる。教会員でない方々からもそうした支えが与えられている。奏楽者の皆さんも、聖歌隊の方々も、さまざまな状況に応じながら厳しい制約のなかで、礼拝を豊かに支えてくださった。そして、この本当に厳しい状況のなかで、献金額の大幅な落ち込みもなく、ここまで来ることができている。多くの方々の祈りと支えによって歩み抜くことのできたこの2021年度を、わたしたちは記憶にしっかりと留めて行きたい。わたしが言うべきことかはわからないが、それでも担任教師として、そうしたお祈り、お支えのそれぞれに心から感謝を申し上げたい。

◆ さて、先週から受難節に入り、4月17日のイースターを目指して歩んでいる。聖書日課に従って、今年は年明けからマルコ福音書によって、イエスのガリラヤからエルサレムへの旅を辿っている。受難節に入ると、聖書日課の主題は「荒れ野の誘惑」、「悪と戦うキリスト」と進み、受難節の最初になぜキリストが十字架に向かわねばならなかったかを確認するようになっている。今日はベルゼブル論争といわれる箇所が与えられた。ベルゼブル、悪霊、サタン。現代のわたしたちにはよくわからない神話的な概念のような感じがして理解が難しいところだが、この記事から何を読み取ることができるか。

◆ まずはベルゼブルとかサタンとか悪霊といった概念について考えておかねばならない。ベルゼブルもサタンも、悪霊の頭の意味で用いられている。ではその悪霊とは何か。霊とあるから聖霊に対立する力と捉えられるかもしれない。ただ、元のギリシャ語はダイモーンになっていて、霊のニュアンスは入っていない。英語だとデーモンとかデビルと訳されるから、悪魔である。ただ悪魔とすると神話論的な感じがするし、実体化して理解されがちになるから、悪霊というのはよく考えられた訳語なんだと思ったりもする。もう一つ、ほとんど悪霊と同じ意味で「汚れた霊」という語が使われているが、こちらはギリシャ語でプニューマ・アカタルトン、英語ではアンクリーン・スピリットで、霊という語が入っている。少なくともマルコ福音書はこの「汚れた霊」を「悪霊」と同じ意味で使っているから、どちらも聖霊や霊と同じで目には見えないが、悪い力、悪いことを引き起こす力と捉えたらよいし、良い霊、神の霊、すなわち聖霊と悪霊を対比的に捉えるのも、間違ってはいないと思われる。

◆ マルコ福音書は、イエスの最初の働き、特にガリラヤでの活動を、悪霊を退けることとして描いている。汚れた霊、悪霊に取り憑かれた人が会堂にいて、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と叫ぶと、イエスは「黙れ。この人から出ていけ」とお叱りになる。そうすると悪霊はその人から出ていった。この悪霊祓いと病を癒すというのがイエスの活動であったとマルコ福音書はその冒頭で報告している。そうした活動がイエスの評判をガリラヤ地方の隅々にまで広げた。

◆ またルカ福音書しか書いていないが、その13章ではそれがイエスの自身の言葉として記されている。イエスがファリサイ派の人に、ヘロデがあなたを殺そうとしているから逃げろと言われたときに、イエスはこう答えられた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」。ここでイエスは、今日も明日も悪霊を追い出し、病気を癒すと自らの活動について語っている。そして今日も明日も自分の道を進むと、つまりその活動を続けるのだと。ここには強力な自己意識が表現されているように思われる。

◆ そしてこの強力な意識が、今日の箇所にも現れていた。悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているという非難に対して、イエスはもし悪の国があるとして、それが内輪で争えば国は成り立たない、だから悪霊の頭の力で悪霊を追い出すことなどできないと、悪霊の立場に立って律法学者の非難を斜め上から批判する。そして、「強い人を縛り上げねば略奪はできない。まず強い人を縛り上げて、それからその家を略奪する」と語る。先のイエスの強力な意識を念頭に置けば、これはイエスが、悪霊の頭を縛り上げて、その手下である悪霊の支配から支配された者を解放しているということではないか。今日の箇所のすぐ後、話の続きで、イエスは聖霊を冒涜する者は永遠にゆるされないと厳しい言葉を語っている。聖霊の力によって悪霊の頭、サタンを取り押さえ、悪霊の支配からイエスが略奪をしている、そのことが悪霊祓いの活動の根拠であり、イエス自身の意識だった。その聖霊を冒涜する者、つまりイエスを動かしている霊を悪霊だと言う者は、永遠にゆるされないのだというのである。

◆ こうしたイエスの活動はある種の宗教的熱狂を留めてもいる。そして、その宗教的熱狂と活動の帰結が十字架であった。なぜイエスがそのような活動に駆り立てられたのか。福音書記者達はそこに霊の力、聖霊の力、その導きを見てとった。それがマルコ、マタイ、ルカの福音書の冒頭に描かれる「イエスの洗礼」とこれに続く「荒れ野の誘惑」の記事である。洗礼において「霊」がイエスに降ってきた。そしてその「霊」がイエスを荒れ野に送り出し、サタンからの誘惑を受けさせた。イエスが悪霊の頭、サタンを取り押さえたのだとしたら、それはこのときであり、悪霊祓いに取り組み、十字架へと進んだイエスを、神の霊が導いているということである。

◆ その「荒れ野の誘惑」について、マルコは詳しく描かないが、他の福音書では三つの誘惑が描かれている。それらの誘惑によって描き出される悪とは、自分に与えられた大きな力や優越性を自分だけのために使うこと、自分がそういう力を持っていることを確認して安心すること、そうして自分自身に幸福をもたらす世の力に仕え、神を、霊の導きを退けることである。これらは自己愛の否定と言えるかもしれないが、問題は、意志規定の原理の序列の逆転であろう。自己愛それ自体が悪いということではないが、神の霊の導きに従うことが第一でなくてはならない。

◆ イエスがその誘惑を退け、十字架での死に至るまで霊の導きに従い続けたことを、マルコ福音書は最後のところで確認している。「十字架から降りて自分を救ってみろ、他人は救ったのに自分は救えないのか(15:29)」と罵られたイエスはしかし、その前日、渡される夜に「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈っていた。そうしてこの最後の誘惑、十字架での誘惑を退けられた。悪の力を感じざるを得ない世界にわたしたちは生きているが、そのようにして十字架へと進み、そこで死なれたイエス・キリストと、彼を動かした聖霊の力を確認したい。そうしてわたしたちも、それぞれの背負う十字架のあることを確認しながら、この受難節の期間を歩むものでありたい。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。