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2019年11月3日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.11.3   永眠者記念礼拝 創世記3:1-15 「神の足音」    望月修治    

◆ 私たちはひとりひとり「わたしの物語」をもっています。どんな人たちの中で、どんなふうに生まれてきたのか、どんなに可愛かったか、どんな失敗をしたのか。父や母や兄弟や友だち、いろいろな人と出会い、そして体験した出来事、そのひとつひとつによって綴られて来た「わたしの物語」があり、今のわたしをつくっています。

◆ 本日は秋の永眠者記念礼拝です。永眠者の写真パネルも壇上に置かれています。多くの人たちが同志社教会で信仰生活を送られました。神はそのお一人お一人の命を見守り、育み、支えて下さって、それぞれに「わたしの物語」を紡ぎ、かけがえのない命の旅路を歩むことを得させてくださいました。

◆ しかし人のいのちの物語にはもう一つの物語があります。人間として共に聞くべき物語があります。人間はどのように生まれたか、人はどのような存在か、どのように生きるべき存在なのか、そのことを綴った「私たちみんなの命の物語」です。旧約聖書の創世記に、その物語は綴られています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」創世記のはじめに記されている天地創造の物語の中に出てくる一節です。神は御自分にかたどって人を創造された、すなわち人間の姿形は神に似ている、神のかたちなのだというのです。

◆ この物語が書かれた紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代には、王が「神のかたち」とされていました。その中で、創世記1章の物語は、人間はみな神のかたちに造られたと宣言します。バビロンで、捕囚民であるわれわれもみな神のかたちなのだと語ったのですから、命に危険が及ぶこともありえます。この文書はバビロニアの支配に対する抵抗の書であり、その意味で古代世界の人権宣言といってよいものです。

◆ わたしたちはいろいろな違いをもち、それらを働かせ、用いることで命を営んでいます。しかし人間はその違いに対して必ずしも優しく、あたたかくはありません。なぜこのあるべき関係性、あるべき生き方を人は失ってしまうのか。そのことを語っているのが、今日読んでいます創世記3章の物語です。冒頭で蛇が登場します。蛇は女に近寄ってきて、きわめて低姿勢で「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と問いかけます。蛇は単純に肯定も否定もできない問いを投げかけることで、神の命令の意味を女に考えさせて、疑問を抱かせるように仕向けたのです。2:17を見ますと、神は「善悪を知る木からは、決して食べてはならない」と言っていますが、「どの木からも食べてはいけない」とは言っていません。ということは、蛇は明らかに拡大解釈して女に問いかけているのです。巧みな誘導尋問です。誘惑者の言葉は罠を巧みに隠しながら、ささやきかけられます。

◆ これに対して女は「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神はおっしゃいました」と答えます。・・・・女は神にいわれたことを忠実に守ろうとしていますし、その自分の正しさというものを、神の言葉をそのまま伝えることで確認しようとしています。確かに神は次のように語っています。2:16-17です。“主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」”

◆ 女が蛇に伝えた言葉と、神が語った言葉とはほぼ同じです。しかし一カ所だけ明らかに違っています。「触れてもいけない」という言葉です。2:16-17で神は「触れてもいけない」とはひと言も言っていません。この言葉は女が付け加えたものです。それは自分の正しさを蛇に強調したいためです。そのために神の言葉を拡大解釈して「触れてもいけない」という言葉を付け加えてしまって、結果として人間の言葉をあたかも神の言葉のようにしてしまうのです。このような意味での正しさへのこだわりは、<互いに向き合い、支え合って生きる>という対等な他者としての並列の関係、信頼の関係を、<支配する者と支配される者>という上下の関係、力の関係に変えてしまいます。<支配する者と支配される者>という関係は<差別する者と差別される者>、<抑圧する者と抑圧される者>という形にもなっていきます。これが罪の本質です。旧約聖書の原語であるヘブライ語で「罪」を表す「ハッター」は「的を外す」という意味です。聖書で語られる「罪」とは、本来あるべき生き方や方向から外れてしまうことを指しています。弓から放たれた矢が的をそれて、どこかへ飛んでいってしまうこと、その空しさが「ハッター」の中身です。

◆ 詩人の吉野弘さんは、人が自分の正しさにこだわり、すぐに的を外してしてしまうことに対して、優しく次のように諭しています。「正しいことを言うときは、少しひかえめにするほうがいい。正しいことを言うときは、相手を傷つけやすいものだと、気付いているほうがいい。立派でありたいとか、正しくありたいとかいう無理な緊張には色目を使わず、ゆったり、ゆたかに、光をあびているほうがいい。」 そしてそのことを思い広げさせてくれる情景を、ひとつの詩にうたっておられます。
「一枚の絵がある。縦長の画面の下の部分で、仰向けに寝ころんだ二、三歳の童児が、手足をばたつかせ、泣きわめいている。上から、若い母親のほほえみが、泣く子を見下ろしている。泣いてはいるが、子供は、母親の微笑を、暖かい陽射しのように、小さな全身で感じている。 『母子像』 誰の手に成るものか不明、人間を見守っている運命のごときものが、最も心和んだときの手すさびに、ふと、描いたものであろうか。人は多分救いようのない生きもので、その生涯は赦すことも赦されることも、共にふさわしくないのに、この絵の中の子供は、母なる人に、ありのまま受け入れられている。そして、母親は、ほとんど気付かずに、神の代わりをつとめている。このような稀有な一時期が、身二つになった母子の間には、甘やかな秘密のように、ある。そんなことを思わせる、一枚の絵」。

◆ 幼い子供は、何か欲しいものがあったのか、その要求を通すために手足をばたつかせて泣いている。その要求が必要か否かを正しく見極める力を母親は持っています。幼い子供は自分の要求を母親に安心してぶつけている。それは母親が親としての正しさを押し付けて分からせようとするようなことはしないと知っているからです。自分の要求が無理なものである場合には、母親は微笑み、穏やかに自分を見下ろして、そのことを知らせて来る。そのことを知っているから、子供は安心して時にはわがままを母親にぶつけて来る。子供がこねるだだを母親は微笑みで受けとめる。そのとき「母親は、ほとんど気付かずに、神の代わりをつとめている」と吉野さんはうたっています。

◆ 母親が自分の正しさにこだわり、子供に分からせようと迫るだけなら、母を子供が「暖かい陽射しのように、全身で感じる」ことはできません。私たちは自分の正しさに固執して、他者への暖かい陽射しを失っていることがあったのではないか。そして今あるのではないか。そんな私たちをありのままに受け入れる覚悟を、神はイエスの十字架において示しました。私たちが今、思いを起こしている天上の友を通して、心に暖かい陽射しが届いていた日々と時間があったことを思うのです。

2019年11月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年11月17日(日)午前10時30分
降誕前第6主日
説 教:「鷲の翼に乗せて」
    牧師 髙田太
聖 書:出エジプト記2章1〜10節
招 詞 : 出エジプト記6章6a~7節a
交読詩編:105;37〜45
讃美歌29,129,186,157,91(1番)

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