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2019年11月10日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2019.11.10 創世記12:1-9 「さらば故郷」         望月修治       

◆ 同志社大学の良心館地階の書籍部でブックウォッチングをしていて、懐かしい本に出会いました。倉田百三の「出家とその弟子」です。若い頃に読んだ本ですが、まだ今も再販されているのだと思わず手に取り買い求め、早速読み出しました。出家は「俗世間を捨て、仏道修行に入ること」ですから、人間の決断に重点が置かれています。キリスト教では「召命」でしょうか。召命は「神に選ばれること」であり、神の働きかけに注目した表現です。これは聖書の物語の主人公が人間ではなく、人間に語りかける神であることを表しています。神が人間に呼びかける、これは信仰へと踏み出すときだけではなく、人間が体験する様々な出来事の意味に気づく、真理を悟ることを促す役割も演じています。

◆ イスラエルの人々の神の民としての歩みは、神が人間に語りかけることから始まりました。その最初はアブラハムです。今日の聖書日課である創世記12章はそのアブラハムの歩みを語る物語の始まりです。アブラハムは、どちらかといえば地味な人物です。しかし、アブラハムには父親のような親しみを覚えます。ローマの信徒への手紙では、アブラハムが「信じるすべての人の父」と語られています。この「父」には「先達」とか「模範」という意味が込められているのだと思います。森有正というキリスト教の思想家は、「アブラハムの生涯」という講演集の中で、アブラハムのことを「信ずる者の父」というよりも「すべての人間の父、人間の原像」だと語っています。自分のこれまでの歩みを振り返り、神のもとに立ち戻り、聖書に記された人々の信仰の物語を読み直し、信じて歩む旅の身支度を整え直したいと思うのです。そしてそこに、人間の原像、信ずる者の原像と言われるアブラハムの物語を読む大事な意味を見いだすのです。

◆ アブラハムの生まれ育った地は、創世記11章31節に「カルデアのウル」と記録されています。カルデアは当時の古代文明の中心地バビロンのことです。しかし、アブラハムは古代世界の表舞台であったバビロンに生きることから離れ、辺境の地カナンに向かうのです。11章の終わりに、父親のテラが息子アブラハムたちを連れてカナンに向けて出発したと記されています。バビロンのウルからユーフラテス川沿いに北上して、ハランに至り、そこで暮らし始めます。この時アブラハムはすでにサラと結婚していました。二人はハランの地でしばらく暮らします。ここまでのアブラハムは父親についていくだけの生活でした。しかし75歳の時に、神の促しに従って、父の家を離れ、親族とも別れて旅立ちます。自分の歩む道を選びアブラハムは歩みだすのです。

◆ 同志社教会には神学生の方たちが派遣神学生として、あるいは一人の神学生として来て下さいました。そして来て下さっています。神学部で学んで自分は将来をどう生きるのか、思いが揺れる時期、迷いの時期を過ごしておられる姿を幾度も拝見してきました。そして決意の時が訪れ、歩みを定めて行く姿にも幾度も出会わせていただいてきました。神様からの促しが、時満ちてこの方にも届いたのだと思いました。思いが整理され、絞り込まれていく、その心の旅路を見させていただく、それは牧師という働きにつかせていただいてきたことで与えられる大きな恵みなのだと思っています。神は生きて働いておられる、そう私たちは言います。そのことを言葉の上でだけではなく、生きた出来事として味わわせていただく。それは牧師としてのわたしに「生きよ」と背中を押してくださる神様からの促しなのだと思えています。

◆ アブラハムも自分自身の歩みを始めました。妻のサラに加えて甥のロトを伴って旅立ちました。さまざまな責任を負いながら歩みだすのです。この旅立ちを、新約聖書のヘブライ人への手紙は「行き先も知らずに出発した」と記します。「行き先を知らず」とありますが、どこへ行くのか、それは知っていました。5節に「カナン地方に向かって出発し」たと記されています。しかしカナンに行ってどうなるか、それはわからない。そういう意味で「行き先も知らない」旅だったということです。神の促しに従って、神の導きに身を託すようにして、アブラハムは自分自身の歩みを始めたのです。口語訳聖書で12章1節の訳文は、この旅立ちの内実をよく表しています。こう訳されています。「時に主はアブラムに言われた。『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。』」「国」を「出る」、「親族」と「別れる」、「父の家」を「離れる」とあります。愛すべき家族、大切なつながり、慣れ親しんできたものを断ち切って、神の召しに従う、それがアブラハムの旅立ちでした。

◆ わたしたちの旅立ちはどうであったでしょうか。わたしたちも、いろいろな選択肢の中から自分の道を選び、角を曲がって歩みだしてきました。その結果に思い悩み、後悔したこともありました。幾たびか決意し道を選び歩みだしてきました。あるいはこれから歩み出そうとしています。振り返ってそれが、いずれも主の促しに応える道であったこと、そしてこれから歩む道であるのだと、アブラハムの物語を読んで思います。 

◆ では、神は何のために人に新しい道へと旅立つことを促すのでしょうか。2節、3節に神がアブラハムを祝福する、さらにアブラハムが「祝福の源となるように」とあります。それは神のアブラハムへの約束であり、同時にアブラハムに与えられた使命でもあるのです。そしてこれは教会の担うべき使命でもあるのです。加えてわたしたち一人一人の存在する理由なのだとも思います。新約聖書のペトロの手紙Ⅰの3章9節に、こうあります。「祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」「祝福を祈る」これは今もなお、神が私たちに託しておられる使命であり、務めなのだと思います。

◆ もうひとつ、この物語から示唆を受けたことがあります。6節以下です。約束の地カナンに入ったアブラハムは、シケム、ベテル、そしてネゲブ地方へ移ったとあります。ネゲブはカナン地方の南端に位置する荒れ野です。シケム、あるいはベテルという肥沃な土地を通りながら、そこを抜けて荒れ野が広がるネゲブまで下って暮したことになります。神が与えると約束されたカナンの土地の周辺の一角に住んだのです。このことが示唆するのは、与えられたものを用い尽くさない生き方をアブラハムはしたということではないのでしょうか。アブラハムはカナンの地にやってきて、神が約束された祝福にあずかります。けれどその中心ではなく、片隅でつつましく生きたのです。バビロンという当時の世界の中心に踏みとどまるのではなく、神の促しを受けとめ、神を信頼し、辺境の地に身を置き、さらにその中の片隅で、その地の人々に神の祝福を祈る生き方を使命として担います。そのアブラハムを神は祝福したのです。

◆ アブラハムが足を踏み入れたカナンの地は無人の土地ではありません。すでにそこで暮らしを営む人々がいます。カナンの人々の暮らしがあります。アブラハムは、先住の人たちが暮らす土地に、彼らの暮らしの中に、無遠慮に踏み込むようなことはしませんでした。約束された土地の南の端のネゲブで慎ましやかに暮らし始めました。アブラハムには与えられたものを用いつくさない慎みがありました。物惜しみをするということではありません。与えられたものを大事に受け取る慎みが、アブラハムにはあったのだと思うのです。その歩みを神は喜び、祝福される。そのことをアブラハムの物語は伝えてくれているのではないでしょうか。

2019年11月24日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

次 週 の 礼 拝
2019年11月24日(日)午前10時30分
降誕前第5主日
法人同志社創立144年記念礼拝
説 教:「新島襄の遺したもの」
キリスト教文化センター准教授 三木メイ
聖 書:列王記下2章1〜15節
招 詞 : エレミヤ書23章5~6節
交読詩編:19;1〜11
讃美歌28,412,552,499,91(1番)
礼拝場所:同志社礼拝堂

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