SSブログ

2016年4月10日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨2016.4.10 ヨハネによる福音書21:1-14 「壮図を抱いて」   望月修治        

◆ 本日の説教題「壮図を抱いて」は新島が残した言葉のひとつです。1890年の正月に新島が作詩した漢詩の中に歌われている言葉です。「歳を送りて悲しむを休めよ病羸の身/鶏鳴早く/已(すで)に佳辰(かしん)を報ず/劣才縦(たと)え済民の策に乏しくとも/尚壮図を抱いて此の春を迎(むか)う。」「佳辰」とはここでは正月のことです。1889年10月、新島は病気の身をおして大学設立募金運動のために関東に出張します。しかし11月末に群馬県前橋で発病し、大磯で療養生活を送っていました。病は重くなっていきました。そして迎えた1890年元旦にこの漢詩を作るのです。「たとえ才能に劣り、苦しんでいる人々を救う手だてに乏しくても、なお大きな志を抱いて、この春を迎える、と歌うこの詩に私は魅かれます。病重く、病床から身を起こすことも辛かったであろう状態の中で「なお壮図を抱く」と歌う新島の志の強さに魅かれます。いやもっと正確に言えば、新島にそのように語らせる力、新島を支えていたものに私は魅かれるのです。人にそのような強い志を抱かせる働きあるいは力と言っていいかも知れません。それは新島がアメリカのボストンで出会った会衆派と呼ばれるキリスト教の教会の人たち、その人たちとの出会いを通して新島が味わい知った聖書の世界、そこに語られている神と生き生きと出会ったことにあります。新島も出会った聖書の世界には、生きることへのさまざまな見方、なるほどそうかと納得させられる命の物語がたくさん語られています。

◆ 今日読んでいるヨハネによる福音書は、20章と21章にイエスの復活物語が記されています。ナザレのイエスという人が十字架に架けられ息絶えて墓に葬られた。しかし3日目に死人の中から甦った。言葉で語ればほんの数秒で語ることができる出来事ですが、不思議さをこれほど深く宿している出来事はおそらく他にありません。死んだ者が甦り、生前一緒に過ごした人たちの所に現れて言葉を交わしたり、食事を一緒にしたりする、そんなことがありうるのか、そういう問いを抱かずにイエスの復活物語に向き合える人はまずおりません。そしてその疑問を解くために復活物語の歴史性、史実性を確かめようとすると、行き詰まり、戸惑いを覚えてしまうのです。史実性を追求しても、復活物語はビデオに収めた出来事のように検証できないからです。けれども復活物語なくして、わたしたちはイエスを今知り得ているように知ることはなかっただろうと思います。もしイエスの物語が十字架刑で終わっていたのなら、紀元後1世紀の間にローマ帝国によって十字架刑に処せられた何千人ものユダヤ人の一人として、イエスについての記憶は過去に埋もれてしまったはずです。イエスがユダヤに生き、活動した、その痕跡が古代の歴史家の文書やユダヤ教の文書に刻まれることはあったとしても、それ以上の影響を歴史に刻むことはおそらくなかったのではないか。

◆ ヘルムート・ティーリケというドイツの神学者は「聖書は神の絵本だ」と語りました。聖書は神のこと、神の働きについて文字という絵の具を使って描いた絵本だというのです。わたしの神学部時代の恩師である野本真也先生は、聖書の物語は神の働きについて「譬え」という方法で語ったものなのだと話して下さいました。絵本をこどもに読み聞かせしている時の私たちはその世界に身を置いています。例えばグリム童話の「ブレーメンの音楽隊」は、それぞれ人間に捨てられたり、食料にされそうになって逃げ出してきたロバ、犬、猫、鶏が音楽隊を結成し町にいく途中の森で、強盗たちがいる家を見つけ、協力して強盗たちを追い出して、新しい生活を切り開いて行くという物語ですが、この物語を事実かどうかという、ということにこだわって読む人はいません。絵本の真理性、読む者の心をワクワクさせ、生きることを深く捉えたり、捉え直しを促す力は、歴史的事実であるかどうかということに依存してはいません。もし仮に絵本の史実性に気を取られるならば、絵本を読み損なってしまうことになります。神の絵本としての聖書、神の働きを「譬え」という方法で語った聖書も、同じです。譬えを理解することはその意義を理解することです。

◆ イエスが十字架に架けられ息絶えて葬られた、それから3日目の朝、イエスの遺体を納めたはずの墓は空であったという。空の墓は、その意義が求められなければ、いくら不思議な現象であったとしてもただ不可思議なだけです。そこに意義が見いだされてはじめて、重要な出来事になるのです。それが譬えとしての聖書、神の絵本としての聖書を理解するということです。私たちは絵本の世界、そこに語られる譬え話、昔話によって真理を知るという体験をしてきました。その楽しさは心をワクワクさせてくれました。そして何度も何度も読み重ねるという体験を誰もがもっています。譬えは、歴史的事実であるか否かという次元とは別の枠組みで、重要な真理を表現します。イエスが神の国について語るとき譬えを用いたのは、神の働き、あるいは真理は、譬えによってしか表しえなかったからではないのかと思うのです。

◆ ヨハネ福音書の復活物語にはいろいろな人たちが登場します。ひとりはマグダラのマリアという人です。イエスが十字架で処刑され墓に葬られて3日目の朝、最初の墓に駆けつけた人です。彼女が墓に行くと、入り口を塞いであった墓石がとりのぞかれていました。中は空っぽでした。次に登場するのはマリアからその知らせを受けて駆けつけたペトロともう一人の弟子です。しかしこの二人の弟子も、墓の中が空で、イエスの頭を包んでいた覆いと遺体を包んでいた亜麻布が残されているのを見たのですが、そのまま家に帰ってしまいます。空っぽの墓が何を意味するのか理解できなかったからだとヨハネは書いています。

◆ 最初に墓の中まで入って、しかもイエスの遺体を包んでいた覆いや亜麻布が残されているのを見たのに、なぜ分からなかったのかとも思いますが、しかし最初だからこそ分からなかった、理解できなかったのではないか。わたしたちは一つの出来事がもつ意味を知ろうとするとき、いろいろな人の見方や思いを聞き、受けとめることによって、より立体的に、またより深く事の本質を受けとめることができます。ヨハネ福音書は復活のイエスが4回にわたってマリアや弟子たちに姿を現したと記しています。最初はマグダラのマリアに姿を現します。墓の外に留まって泣いているマリアの背後から「婦人よ、なぜ泣いているのか」と語りかけます。次は同じ日の夕方です。権力者たちを恐れて、鍵をかけ家の中に閉じこもっていた弟子たちのところに、イエスが現れ「平和があるように」と言って、手足の傷跡を見せたというのです。3回目はそのときその場に居合わせなかったトマスにイエスは姿を現します。トマスは他の弟子たちから復活のイエスに出会ったという話を聞くのですが、それを信じられないで、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。そのトマスに1週間後、やはり鍵をかけて家に閉じこもっていた弟子たち、トマスも今度は一緒にいたその場所にイエスがまた姿を現し、「平和があるようにと」また語りかけます。そしてトマスに手や脇腹の傷跡に触れてみるようにと促しました。

◆ 復活をめぐるさまざまな反応が語られていますが、死んでいた者が甦るという表現で語られる出来事、人間が持っている理解の枠組みをはみ出してしまう出来事を受けとめるためには、一人ではなく、いろいろな人の受け止めが必要であり、それが語り合われ、分かち合われることが必要なのです。自分の理解や受けとめとは違う見方を幾つも重ねて出来事と向き合うことが必要なのです。何回も復活にイエスが姿を顕わしたという物語はその道筋を示しているとわたしは思っています。

2016年4月24日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年4月24日(日)午前10時30分
復活節第5主日
説 教:「憎まれっ子」 牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
15章18~27節
招 詞:エゼキエル書36章24~26節
交読詩編:106;1-5
讃美歌:26、156、451、536、91(1番)
※次週の礼拝は栄光館ファウラーチャペルにて行います。
礼拝後、定期総会があります。場所は栄光館E207教室です。
◎「議案・報告書」を忘れずにご持参下さい。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。