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2016年4月17日(日)の説教要旨 [説教要旨]

説教要旨 2016.04.17 ヨハネによる福音書21:15-25 「それぞれの務め」(髙田太)               

◆ 一旦、20章で物語を閉じたヨハネ福音書には、後になって、これまでのところとは別の著者によって書き足された21章が続いている。21章結びに登場する「わたしたち」という語がそれを示している。

◆ 21章は、全体で一つの場面として書かれている。舞台はティベリアス湖畔、すなわちガリラヤ湖畔であり、物語の主役はペトロである。ペトロは他の弟子達と共に漁に出たが、その夜は何もとれなかった。夜が明けた頃、弟子達が舟を岸に戻そうとすると、岸には復活のイエスが立っておられた。イエスの愛しておられた「あの」弟子が、ペトロに「主だ」というと、ペトロは裸同然だったので上着をまとって湖に飛び込んだ。そして、弟子達は舟を岸に着け、イエスと共に朝の食事をした。今日の箇所は、この食事の後のイエスとペトロとのやり取りである。14節に「イエスが弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と記され、20章でイエスが二度弟子達に現れているように、著者はヨハネ福音書を何度も読み直して、そこに書かれていることを補足しようとしている。そうであれば、著者の念頭には、この福音書のここまでのペトロについての記述が置かれているはずである。

◆ ヨハネ福音書には、ペトロは七度登場するが、それらを総括して言うならば、ペトロは、はじめから終わりまでイエスと旅を共にした弟子であり、弟子の中でも自分だけはイエスに従い抜くのだという固い忠誠心を持とうとしており、それにも関わらず、洗足の場面やゲツセマネの園の場面でイエスの思いを理解できずに的はずれに振る舞い、最終的には三度、イエスを知らないと言うことで、命を賭けてもイエスへの忠誠を貫こうとしたその志を、自ら反故にしてしまった人物である。また彼は、空の墓を見ても直ちにその意味がわからなかった。こうしてみれば、ヨハネ福音書は、他の福音書や使徒言行録に比べれば、随分とペトロに厳しいということがわかる。むしろ、この福音書はイエスの愛された弟子を登場させて、こちらを弟子の模範として描いている。

◆ 今日の箇所で、イエスは食事の後、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と、ペトロに問うた。この人たちとは、そこにいた他の弟子達である。ペトロは言葉小さく答えた。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ペトロはイエスの問いを回避した。「この人たち以上に」とイエスは問うたのである。既にイエスへの忠誠を貫くことに挫折したペトロは、その問にもう正面から、「この人たちはどうか知りませんが、わたしだけはあなたを愛し抜きます」と答えることはできなかった。

◆ イエスはその問いを、三度も繰り返した。この三度は明らかに、ペトロの三度の否認に対応している。復活のイエスは厳しくも、その事実をペトロに突き付けた。復活者との出会い、神との出会いは、そんなふうに人の罪を自覚させるものでもある。先にガリラヤ湖の岸辺にイエスを見つけたペトロは、「裸同然だったので、上着を纏って湖に飛び込んだ」。裸を恥じて衣を纏うというこの表現は、創世記冒頭のアダムとエバの物語を思い起こさせる。禁じられた実を食べたという罪の自覚が、裸を恥じさせるのである。復活のイエスは、時に人を厳しく裁き、罪を自覚させる。厳しい罪の自覚の中でこそ、復活のイエスはその姿を現されると言うこともできるだろう。しかし、重荷を共に担ってくださるイエスは、そのことでその人を鼓舞して立ち上がらせ、その人に新たな務めを指し示される。

◆ イエスは三度、ペトロに対して「わたしの羊を飼いなさい」と諭された。今日の前の箇所でもペトロは漁師として描かれており、他の福音書では、イエスは同じガリラヤ湖畔でのペトロの召命の際に、「人間をとる漁師にしよう」と語られた。その漁師に対して、ここでイエスは羊を飼えと言うのである。これは、どういうことだろうか。

◆ 続けてイエスは語る。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。この言葉を漁師ペトロに当てはめるなら、どうなるか。若い頃には好きに漁師として魚を捕ることもできる。人間をとることもできる。しかし、年をとって身体の自由が利かなくなれば、もうそんなこともできなくなる。むしろ誰かの世話にならねば生きられなくなる。これに「わたしの羊を飼いなさい」というイエスの言葉が響いては来ないだろうか。あなたは、弟子の筆頭として、復活の目撃者として、聖霊を受けた者として、力強く宣教し、多くのものをキリストの道へと導いた。しかし、あなたはそうしてできた教会を丁寧に牧さねばならない。信徒一人一人を気遣って、共にいて、それに寄り添い、育て上げねばならない。なぜなら、あなた自身も年をとって力を失えば、そんなふうに誰かに牧される羊とならねばならないのだから。

◆ 「あなたのためなら命を捨てる」と言っていたペトロに対して、イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と語った。ヨハネ福音書でイエスは、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語っている。命は自分が熱狂して崇拝する人のために捨てるのではなく、羊のために捨てるものなのである。羊は羊飼いの羊である。そしてその羊飼いは羊のために命を捨て、十字架に死なれた。残されたその方の羊を飼うのは「雇い人」(10.11-12)である。雇い人は羊を心にかけねばならない。

◆ 続く19節では「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」と記されており、これはペトロが殉教の死を遂げたことを現していると解釈されてきた。この箇所を付加した著者はペトロがどんな活動をして、どんなふうに死んだのかを知っていたのだろう。彼は殉教したのかもしれない。しかしそれがどんな殉教だったのかはわからない。しかし、ペトロがその生涯と死において、神の栄光を現したことは間違いない。

◆ そしてイエスは食事の席から立ち上がり、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われる。物語は空間的な移動に、時間的な移動を重ねている。先のペトロの死に方に関する記述がそうした時空間を広げている。イエスに従い、歩み出したペトロが振り向くと、「イエスの愛しておられた弟子」がついてくるのが見えた。ペトロはその弟子が気になり、「この人はどうなるのでしょうか」と聞いた。これにイエスは、その人とわたしの関係が、さてあなたに何の関係があるか。「あなたは、わたしに従いなさい」と答えた。

◆ 復活のイエスに出会い、宣教者として立てられたペトロは、使徒言行録に記されたように12使徒の筆頭として力強い宣教を展開し、多くのキリスト者を生み出して行った。しかしその傍らで、別の歩みをする人々もいた。ペトロが復活者との出会いを強調して宣教する一方で、「見ないで信じるものは幸いである」と語ったこの福音書に連なる人々もいた。初期の教会は、使徒言行録やパウロの手紙にその痕跡を残している通り、様々な苦難に出会い、それを様々な仕方で乗り越えて、様々な指導者が立てられて、ユダヤ人を中心とする群れから異邦人を中心とする群れへと広がって行った。そこには考えの違いによる分裂や、教会間の軋轢もあったであろう。この21章の記述は、この箇所が記された時代のそうした教会的な背景を映し出しているのかもしれない。

◆ 私たちも互いに尊重し、励まし合い、誠実にそれぞれの務めを果たしていく者でありたい。

2016年5月1日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2016年5月1日(日)午前10時30分
復活節第6主日
説 教:「わたしはあなたを独りにしない」
 牧師 望月修治
聖 書:ヨハネによる福音書
16章25~33節
招 詞:ローマの信徒への手紙
8章28~29節
交読詩編:8
讃美歌:27、149、531、528、524、91(1番)
    第1編270(1番)


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