SSブログ

2022年3月27日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書9章2〜10節 「弟子たちの山上見聞録」 望月修治

◆ 竹内洋岳(ひろたか)さんの『下山の哲学』(太郎次郎社エディタス 2020年刊)を読みました。著者の竹内洋岳さんは、ヒマラヤ山脈の8000mを超える14の山々の完全登頂を日本人ではじめて達成した、世界では29人目の達成者です。この本の中で竹内さんは「大切なのは登頂することではなく、登頂して無事に帰ってくることです」と書いておられます。山は上り以上に下山することが難しい、だから山頂をゴールだと思ったことはないそうなのです。登山をテーマにした本やドラマで、下山の行程に光が当たることはあまりありません。登頂をクライマックスとして物語が語られます。たしかに、「山頂」はだれにとってもわかりやすい『ゴール』かも知れません。しかし、じっさいに登山をしていると、山頂がゴールだと思うことはありません。『登頂した』と言えるのは、頂上に着いたときではなく、ベースキャンプに帰ってきたときだというのです。山に登りそこで目にする世界、そこで味わう体験は無事に下りてこそ意味がある、ということです。

◆ 竹内さんのこの言葉に、私は新しく目が開かれる思いがしました。本日の聖書日課であるマルコ福音書9章の物語を読む上で、今まで自覚してはいなかった視点に気づかされたからです。ここに記されているのは、イエスが山に登り、そして山を下りるまでを描いた物語なのだということです。山を下るのは付け足しではないのだということです。そのことを初めて強く自覚させられました。イエスは山に登りそして山を下る人です。山の上で姿が白く栄光に輝く、そこに留まる人ではありません。イエスは確かに山に登ります。しかし山を下るのです。その過程をすべて押さえてこそ、山の上でイエスの身におこった実に不思議な出来事の意味が見えてくるのだと思ったのです。

◆ ペトロとヤコブとヨハネ、彼らはこの日、山に行くというイエスの後に従うように高い山に登ります。息を切らしながらようやく登りきって山の頂上に出ます。弟子たちは額ににじんだ汗をぬぐっていた時であったかも知れません。イエスの姿が真っ白に輝き出すのを目の当たりにします。弟子たち3人はあっけに取られたと思います。しかもそのイエスが旧約聖書の時代の預言者エリヤと指導者モーセと語り合っているというのですから、弟子たちの驚きと戸惑いと混乱はさらに激しく渦を巻いたに違いありません。「どうしてよいのか、分からなかった」と6節にあります。

◆ ここでひとつ押さえておきたいことがあります。2節に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」とありますが、原文では「変えられた」という受け身形なのです。すなわちイエスが自分で姿を変えて見せたというのではなく、変えられたということです。神によって変えられたということです。弟子たちにこの出来事を見せたのは神です。神が弟子たちに、エリヤとモーセと語り合うイエスを見せたということです。

◆ では弟子たちは、この啓示の出来事にどう向き合おうとしたのでしょうか。「私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう」とペトロが言いました。仮小屋を三つ建てるというのは、イエス、エリヤ、モーセに、この場所、この山の上に留まってもらって、自分たちが今目撃している出来事の意味を知ろうと考えたということです。しかしながら、はたしてそれは、的を得た答えであったのかどうか、神は直接には何も答えず、ただ「これはわたしの愛する子、これに聞け」とのみ語ります。

◆ 高い山の上でイエスの姿が白く変わる、その栄光の姿をクライマックスと見なし、クローズアップするということに関心が集まりやすいのですが、しかしそれでは神の御心は見えないのだとマルコは物語るのです。イエスは山の上にはとどまらず、山を下りて行ったからです。山を下りてイエスはどのように歩んだのか、どのように生きたのか。大切なことはそこまでを含んだすべてを通して示されるのです。大切なこととは何か、それを読み解く上で、イエスがエリヤとモーセ、この二人と語り合ったことについてもう少し掘り込んでみたいと思います。

◆ モーセはイエスより約1300年ほど前の時代の人です。そしてエリヤはイエスより800年ほど前の時代に活動した人です。モーセは、神の命令によって、エジプトで奴隷状態に置かれていたイスラエルの人たちを助け出し、エジプトを脱出し、神が約束した土地であるパレスチナまで実に40年もかかって導いた、そして彼自身は約束の地を目前にしながら、しかしその地に入ることなく生涯を終えたと伝えられています。その旅の途上に、モーセはシナイ山で神から十戒を授かり、それを人々に取り次ごうとしたことが出エジプト記に記されています。またエリヤも時代は紀元前800年代、イスラエルの人たちの中に異教の神々を礼拝する動きが出て来たことを激しく批判し闘った人物です。そのため彼は命を狙われ危険な状態に陥るのですが、その時逃れた先がやはりシナイ山であり、そこで神の語りかけを聞いたというのです。

◆ モーセとエリヤとイエス、この三人はいずれも山に登り、そこで神と出会い、神の声を聞いたという点で共通しています。さらに共通点を挙げるとすれば、この三人はそれぞれの時代において、神から託された仕事を忠実に果たした人たちでした。またそういう生き方を貫いたことで、苦しみの多い人生を送ったという点でも共通しているのです。その三人が山の上で語り合っているという幻想的な出来事に神は弟子たちを向き合わせました。

◆ 聖書の時代に生きた人たちにとって山は神と出会い、神からの語りかけを聞き、神の御心を受けとめる場所でした。しかし同時に聖書は、山を終着点、あるいはゴールとは描かないのです。神の語りかけを聞く、そこで終わりだとは言わないのです。山を下り、神の思いを人々に語り聞かせ、体験し、味わってもらい、生き方を変える気づきへといざなう、そこに焦点を絞り込むのです。

◆ 人は、神の姿を見ることができないがゆえに、また、その声を互いに会話するようには聞くことが出来ないがゆえに、神は無力だと決めつけ、祈りなど意味がないとうそぶき、自分たちの力、目に見えるものによりどころを置き、的を外れた道を歩みます。そのような人々のもとに戻り、一緒に歩むために彼らは山を下ったのです。イエスが山を下って戻った場所は人々が生きている場所です。しかしイエスの立つ場所はそこで終わりではありません。さらに下るのです。十字架へ、そしてもっと低く「陰府にまで下った」と聖書は語ります。人の世の最も低いところに下ってまで、神が徹底して人と共にいることをイエスは示したのです。

◆ 聖書が語るこの神の思いを味わい知ろうとする時、人は受け身です。高い山の上でイエスの姿が真っ白に変わったのではなく、神によって変えられたように、人は受け身です。しかし一つだけ、受け身ではなく、自分からしなければならないことが人にはあります。誰かと一緒にいることです。なぜなら「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)とイエスが語っているからです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)ともイエスは語っているからです。共に生きる、それが、生きて働く神の声、神の思い、神の御心を味わい知るためにわたしたちがしなければならない備えです。イエスは陰府に下ってまで私たちと共にいて、人間を救おうとする断固とした神の決断を人々に啓示したのです。

2022年4月10日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年4月10日(日)午前10時30分
復活前第1主日・受難節第6主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「無力さの中の祈り」
              牧師 菅根信彦
聖 書:マルコによる福音書14章32〜42節
招 詞:ヨハネによる福音書12章24節
讃美歌:24,304(1・3節),451(1・4節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。