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2022年4月3日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書10章35~45節 「僕となった主」 菅根信彦

◆ イエスの生涯を綴るマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書。その中で最も古く、マタイ・ルカ福音書の資料ともなったマルコ福音書は、「福音の逆説性」「信仰の逆説性」が豊かに描かれています。「逆説」とは英語でパラドックスと言います。広辞苑では、「多くの人々の期待に反して、一般に真理と認められたものに反する説。あるいは、一見、真理に背いているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現のこと」と説明がなされています。諺で言えば「急がば回れ」などが逆説の用例として出てきます。急ぐ仕事は、一般的には時間通り本来は急いでするものですが、そうではなくかえって丁寧に仕事をしなさいという意味です。「ゆっくり急げ」ということができます。このような、一見多くの人々がもつ考え方に背いているように見えても、ある種の真理を言い当てている事柄があります。

◆ このような逆説をはらんだ言葉や教えをイエスは語っています。特にマルコ福音書はこの逆説性をもってイエスの生き方を捉えていると言えます。例えば、「汚れた霊に取りつかれた子ども癒す物語」(9章14~29節)の中に、代表的な逆説的表現があります。病気で七転八倒する子どもを癒してもらいたい父親が、イエスに「おできになるならわたしどもを憐れんでください」と懇願します。それに対して、イエスは23節で「『できれば』というのか。信じるものには何でもできる」と諭すと、父親がこう叫びます。「信じます。信仰のないわたしを助けてください」(24節)と言うのです。この叫びはすごいです。「心の奥底にある自己そのものと共振する言葉だ」と思いませんか。イエスに対する信頼。それは「揺るぎないものをもって信じましょう」との倫理ではなく、イエスや神に対する不信、不誠実さを持つその惨めな現実に立ってなお、すがるように「信じます」というのです。しかも「信仰のないわたしを助けてください」と言うのです。この父親の叫びは私たちの叫びでもあるのです。これこそが「信」と「不信」の逆説です。この逆説こそがイエスの赦しの深さを示すかけがえのない言葉となっているわけです。ここに福音があるのです。ここに信仰における深い自由があるのです。

◆ 本日の聖書個所、特に第二段落のマルコ福音書10章35節以降の「ヤコブとヨハネの願いの物語」(10章35~45節)もまた福音の逆説性を豊かに示す物語の一つです。マルコ福音書は、その構成上フィリポ・カイサリアでの「ペトロの信仰告白」(8章27~30節)を境に、イエスはそれまでの活動地域であったガリラヤ地方を離れ、エルサレムに向かう「道」へと場面が変わります。そのエルサレムに向かう途上で、イエスは3回にわたるエルサレムでの「受難・復活」を予告します。これらの物語は、〈ガリラヤ地方での民衆に仕え生きたイエスの活動〉と〈エルサレムの最後の1週間の活動〉を結び付ける役割を果たしています。さらに、十字架の苦難と死の出来事を通してイエスの救いの業を明確にするとの役割があると言われています。しかし、3回の受難予告後の弟子たちの振る舞いと議論は、最も近いものが最も遠い存在となっていくとのイエスと弟子たちの「逆説的な関係」が描かれていきます。

◆ その中でも3日目の受難予告がなされた直後の「ヤコブとヨハネの願い」は、弟子たちが全くイエスの思いを理解できなかった決定打のような物語となっています。ヤコブとヨハネは「イエスが栄光をお受けになる時、わたしどもの一人を右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と願いでます。すなわち「最高の地位」に就かせて欲しいと要求します。しかも他の弟子たちから抜け駆けして密かに願いでます。この二人は「宗教的野心」「人間的野心」を露わにします。

◆ ドイツの神学者であったディートリッヒ・ボンへッファーはこの弟子たちの地位や名誉を求めていく「宗教的な野心」についてこのような言葉を残しています。「人々が一緒に集まるとすぐに、彼らは互いに観察し、批判し、品定めをし始めるに違いない。既にキリスト者の交わりの成立の始めの時から、目に見えない、しばしば無意識のうちになされる。それによって、交わりの生死が決定されるような恐るべき争いが起こるのである。弟子たちの中で議論が始まった。これは交わりの破壊をするに十分であった」(『共に生きる生活』より)

◆ このボンへッファーの言葉のように、「他の10人の者これを聞いてヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」(41節)と書かれています。弟子集団の交わりが崩壊していく様子が描かれています。他の弟子たちは彼らに出し抜かれたと思ったのでしょう。他の弟子たちもまた、「支配することを欲し」「第一人者になろう」と思っていたということです。最もイエスの身近にいた弟子たちも、この世の通念や価値観(序列化や比較)の中で生きていた存在に過ぎなかったのです。

◆ 弟子たちの憤慨と交わりの危機の中で、イエスは「一番偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕となりなさい」(43節)と語ります。そして、イエス自らが「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た。また、自分の命を多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(45節)と、この世に遣わされた意味を改めて宣言します。このように、マルコ福音書の教会は「救い主イエス」を「主(キュリオス)である」と告白すると同時に、その真反対の「僕となった」と告白するのです。

◆ イエスは自分を「身代金」として命を献げると語ります。「身代金」と訳される言葉は、奴隷を買い取るための贖い金のことを指します。つまり、イエスの十字架の受難と死は贖い、すなわち、人々のための贖罪であったと告げています。マルコ福音書はイエスのエルサレムでの受難と十字架の死をそのように捉えています。しかも、イエスはその弟子たちに代表される人間の破れや罪を抱え込んで十字架に赴くのです。

◆ ペテロの第一の手紙4章8節に「何よりも先ず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」との言葉があります。その言葉のように、イエスの命の身代金、僕となった姿の中に罪を覆うような溢れる愛の姿があるのです。その「主」であり、「僕」となったイエスの逆説的な歩みの中に、深い赦しと愛があるのです。そうでなければ、だれも救われれることはないのです。

◆ イエスの僕となった命に執り成され、赦され生きる私たち。私たちもまた、隣人のために、仕え生きることによってキリスト・イエスの言葉に応えていければと思います。仕えることによって、僕となった主イエスの愛の深さを身に受けることができるのです。

◆ 日本の放送作家・作詞家であった永六輔さん(1933年~ 2016年)の詩にこのような印象的な詩があります。「生きているということは、誰かに借りを作ること。生きているということは、その借りを返していくこと。誰かに借りたら、誰かに返そう。誰かにそうしてもらったように、誰かにそうしてあげよう。生きていくということは誰かと手を繋ぐこと。繋いだ手のぬくもりを忘れないために、めぐり逢い、愛し合い、やがて別れの日、そのときに悔やまないように、今日を明日を生きよう」と。

◆ 私たちの「主」は決して高みにいる存在ではなく、「僕となった主」です。その逆説の主の命に生かされ、私たちもまた隣人に、社会に仕える僕となってこのレントの期間を歩んでいきたいと思います。

2022年4月17日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年4月17日(日)午前10時30分
復活節第1主日・イースター礼拝
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「追憶から明日へ」
              牧師 菅根信彦
聖 書:ヨハネによる福音書20章11〜28節
招 詞:詩編68編20〜21節
讃美歌:24,333(1・3節),575(1・3節),524(1・2節),91(1節)
◎聖餐式を行います。
◎礼拝後、聖歌隊による合唱が栄光館玄関ホールにて行われます。

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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