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2022年10月2日(日)の説教要旨 [説教要旨]

マルコによる福音書14章10~26節 「主の食卓の豊かさ」 菅根信彦

★ 10月第1主日は「世界聖餐日」です。世界聖餐日は、世界キリスト教連合会の呼びかけによって1946年に制定されました。第二次世界大戦により全世界が深い傷を負った直後のことです。分裂によって多くの命が奪われ、財産が失われた時代から、一致を求めていく動きが世界中に起こります。世界中のキリスト教会も同様で、聖餐を通して、キリストにある交わりを確かめ、国、宗派、教派を超えて、全教会の一致を求めていくようになります。その根底には、イエスが「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節)との祈りがあります。イエスは残される弟子たちが「一つとなっていく」ことを切に願ったことが分かります。本日は「最後の晩餐」の物語から一つとなることを考えていきます。

★ さて、「最後の晩餐」は「除酵祭の第1日目、すなわち過越の子羊を屠る日」(12節)に行われたことが記されています。「除酵祭」は、イースト菌の無いパンを食べてエジプトからイスラエルの民が苦労して脱出したことを思い起こす大切な祭りです。その除酵祭の一日目が三大祭りの一つである「過越祭」です。出エジプト記においては、イスラエルの民の解放を頑なに拒むエジプトのファラオへ10の災いが下ります。その最後の災い、エジプトに住む初子が神に打たれるという災いが下されますが、屠った子羊の血を家に塗ったイスラエルの民だけは、神の災いがその家を過ぎ越していきます。そして、この出来事を契機にイスラエルの民はエジプトから脱出が認められていくのです。つまり、この祭りはエジプトからの解放の記念を覚える時として祝われていきます。

★ この「過越の祭」の当日に、イエスは弟子たちと過越の食事をし、そして、パンとぶどう酒による「主の晩餐」が行われたことを伝えています。そこで、衝撃的な言葉がイエスから発せられます。「イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている』」(18節)と断言口調で誰かの裏切りがあることを弟子たちに伝えます。これは、最初の10節以降の記事からイスカリオテのユダのことだと直ぐに分かります。しかし、マルコ福音書はあえてこの食卓では、ユダの名前を上げずに、弟子たちの不安のみを記します。

★ この場面は、不朽の名作と言われているレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』(1495~98年)の作品を思い出させます。この絵画は先ほどのイエスの言葉「あなた方のうちの1人が私を裏切ろうとしている」とその劇的な一瞬を切り取った絵であると言われています。弟子達の間に驚愕と動揺が巻き起こる様子が、3人ずつ4つに分けられた弟子達の動きに表現されている作品です。イエスの言葉を聞いた弟子たちの動揺、不安、驚愕がイエスを中心に波を立てているような光景です。また、イエスは「12人のうちの一人で、わたしの鉢に食べ物を浸しているものがそれだ」(20節)と語り、弟子たちは心を痛めて「まさかわたしのことでは」と言います。それは、「わたしであるかもしれない」「わたしでありうる」という意味です。そして、その裏切るかもしれない一人ひとりが主の晩餐に招かれ食卓を囲んでいるのです。

★ 考えてみれば、最初の聖餐から「裏切りの手」があったのです。聖餐式は、ただ、イエスの十字架の執り成しの恵みによってしか成り立つものでないことが示されます。そのような状況下で、イエスはパンを取り、それを「裂いた」、そして、「取りなさい、これはわたしの体である」(23節)と語ります。そして、杯も同様で「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(24節)と語ります。「多くの人」というのは「すべての人」と言う意味です。すべての人のために流される「キリスト・イエスの血」であるというのです。ユダだけでなく、また、あの日の弟子たちだけでなく、イエスに従おうとして、しかし、裏切るだろうすべての人のための「からだ」であり「杯」であるということです。イエスは命を差し出すことによって、裏切るものをご自身の内に引き受けるのです。教会という信仰共同体は、主によって赦された者たちが集められ一つにされていくところであることが分かります。

★ 現在生きる私たちは、分断と敵意に溢れた世界に生きています。ウクライナへのロシア軍の侵攻、戦いは長期化・激化していく様相です。ウクライナ正教会、ロシア正教会との宗教的対立も顕著になっています。日本でも安倍元首相の国葬を巡って世論が二分しました。二年半にわたるコロナ禍の中で孤立化する状況が続き、一つになること、共に生きることの難しさを感じます。

★ 京都御幸町教会に40年仕えた牧師藤木正三牧師は、キェルケゴールの研究家であり、牧会の中で『灰色の断想』というエッセイを残しています。その100近い断想の綴りの中に「一つになること」についての言葉があります。紹介します。「人は何よって一つになるのでしょう。一つの目標を目指すことにおいてでしょうか。思想や信仰を同じくすることにおいてでしょうか。そういうことで一体感を味わう人もあります。しかし、そこには人間への誤解があるように思います。人は、共通のものに関わることによって一つになるように見えて、実は、共通の事実を内に自覚するまでは、一つにはならないものではないでしょうか。そして、おそらく罪をおいてほかに、その共通の事実に出会い得ないでありましょう。罪において一つ、一体感に内容を与えるのはこれです」と。非常に実存的な人間理解です。藤木先生は、教会の交わりの一体感は、破れを抱えた人間、神に従えないという共通の事実、神の前における私の罪の自覚以外にはないと語ります。

★ 使徒パウロは「わたしたちは皆神の裁きの座の前に立つ」との言葉を残しています。その共通の事実によって、主イエスの十字架の苦難と死によって罪赦された喜びが芽生え、その恵みを受けて高らかな讃美へと導かれるのです。これが教会の一致の姿のようです。そうでなければ、私たちとて人を赦すことや和解の務めはできません。それぞれの正しさや価値観の押し付けでは一つになれないからです。まして、武力や力では一つになることはできません。

★ 今日、聖餐を通して、わたしたちの破れた存在が主イエスの裂かれたパン、流された血潮に象徴される十字架の死と痛みによって、赦されていることを深く覚えたいと思います。傷つくまで愛し抜いたイエスの赦しから世界が一つになっていくことを共に祈りたいと存じます。

2022年10月16日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年10月16日(日)午前10時30分
聖霊降臨節第20主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「幸いなるかな」
               牧師 菅根信彦
聖 書:マタイによる福音書5章1〜12節
招 詞:ローマの信徒への手紙5章5節
讃美歌:24,208(1・2・3節),492(1・2・4・5節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
※メールアカウントの種類によっては、こちらからのご連絡を受信いただけない場合があります。お申し込みの際にGmail等のアドレスを用いていただきますと、上述のトラブルを回避できる可能性があります。他にも、こちらからのご連絡が「迷惑メール」フォルダ等に振り分けられる場合があります。メールが届いていない場合、ご確認をよろしくお願いいたします。
※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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