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2022年10月9日(日)の説教要旨 [説教要旨]

コロサイの信徒への手紙1章21~29節 「苦難の共同体」 藤田 和也

 先日、京都教区の「聖書を読み直す会」で発題をしてきました。その際全信徒祭司説と教師制度の関連が活発に議論されたのですが、「全信徒祭司」というきわめて基本的な概念でさえ、参加者の理解は一枚岩ではないと実感しました。宗教改革の三大原理は、全信徒祭司・聖書のみ・信仰義認であると言われますが、信仰義認についても、やはり多様な理解があるように思われます。信仰義認とは、私たちは信仰によって、神から「義なる者」と認めていただくという考えです。問題は「義認後」の生活です。私たちはイエス様を信じるようになってからの生涯を、いかに生きればよいのでしょうか。このような問題意識のもと、三つの要点に絞って御言葉に聞いてまいりたいと思います。

 第一の要点は、「救いは時間をかけて完成される」ということです。コロサイ書1章6節には「福音は・・・神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」とあります。つまり、私たちはイエスを救い主と信じた途端、瞬間的に救われるのではなく、それは長い救いの道程のスタート地点なのです。私たちは信仰により義と認められますが、なにもそれだけで救いが完成するのではありません。もしそうであれば、信仰告白が人生のゴールとなり、教会生活の意義が不明瞭になってしまいます。
キリスト教神学では、救いは義認と聖化から成るとされます。神によって、神の国に相応しい「聖なる者」と認められる出来事が義認であるとすれば、聖化とは、私たちの内実が「聖なる者」へと変えられていく過程であるといえます。

 では、その聖化の過程において私たちがなすべきこととは何でしょうか。コロサイ書1章10~12節に基づけば、1) 良い業を行って実を結ぶこと、2) あらゆることに耐え忍ぶこと、3) 父なる神に感謝することであるといえます。無論そうした「行為」が救いの条件なのではありません。そうではなくて、私たちは「行為」をつうじて、自らが神の主権のもとに「聖なる者」へと変えられていることを、日々実感するのです。

 第二の要点は、「救いの過程において、私たちは苦しまざるをえない」ということです。私たちは、すでに救いへの招きに応答しています。だからこそ、今こうして私たちは教会に集っています。自らの命運を神に明け渡した私たちが、地上生涯の残り時間ですることとは、神が救いに予定された人々を一人でも多く探し出して、その人にイエス・キリストの出来事を知らせること、すなわち宣教です。パウロによれば、その道程を歩む私たちは絶えず苦難に遭遇するが、それを耐え忍ばねばならないといいます。しかも、その苦難とは喜ばしいものであるというのです。彼は聖書箇所の24節において、御言葉を宣べ伝えるが故の苦難が、自らにとっては喜びであると述べます。

 さらに、自分は「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たしているとまで主張するのです。22節にもあるように、私たちは御子の死によって神と和解したはずです。したがって、キリストの苦しみに不十分な点などありません。じつは、ここでパウロが「キリストの苦しみの欠けたところ」と言うのは、「キリストの苦しみが要求するもの」という意味なのです。キリストの苦しみは、新たな苦しみを要求するということです。

 福音を宣べ伝えることは、時として教会の外の世界との対立を要求します。エフェソ書の6章では、信仰生活が武具の譬えによって表現されます。それほどまでに、信仰生活は過酷なのです。イエスがご自分に敵対する者のために命を捨てられたように、彼をキリストと信じる私たちも、その生涯に倣うことが求められます。私たちは地上で傷つくことによって、またこの世的な尺度のもと咎められることによって、ますます神の御前に傷のない者、咎めるところのない者とされるのです。そうした苦難を、喜びをもって耐え忍ぶことが、私たちに期待されています。

 第三の要点は、「私たちは教会という共同体において、兄弟姉妹とともに苦難を担い合う」ということです。コロサイ書において、キリストは「教会の頭」であり、教会は「キリストの体」であると言われます。教会では、一人一人がキリストの手となり足となり宣教に励みます。私たちはキリストの体の四肢として、互いに苦しみ合うのです。

 1947年にアフリカ系アメリカ人で初めて野球の大リーグの選手となったジャッキー・ロビンソンを描いた、『42』という伝記映画があります。ドジャースの経営者リッキーは彼を自身のチームに迎え入れます。ある試合で、相手チームの監督がジャッキーを挑発してきました。彼は心をかき乱され、凡打に終わってしまいます。悔しさのあまり、彼は独りベンチ裏で泣き叫びます。リッキーがやって来て、ジャッキーを慰めますが、彼は聞き容れようとしません。ジャッキーは言い返します。「あなたに差別を受ける気持ちがわかるか」と。リッキーは答えます。「わからない。君はまさに苦しみのなかにいる。イエスが荒野で40日間耐えたように、君も耐えるんだ。君独りで」。

 しかし、ジャッキーは本当に孤独に闘っていたわけではありませんでした。彼の専属となった記者は、自らも黒人であるが故に球場の記者席に入れず、いつも客席でタイプライターを打っていました。当初ジャッキーの入団に反対していたスカウトや同僚は、気づけば彼とともに闘っていました。何より、彼を球団に招いたリッキー自身が、実は自らの大学野球時代に、黒人のチームメイトが肌の色故に挫折してしまい、自分は何の力にもなれなかったという悔しさと、つねに闘っていたのでした。

 私たちは自分が苦難に直面しているとき、自分は孤独であると感じます。「誰も一緒に闘ってくれない」と。また兄弟姉妹が苦難に耐え忍んでいるのを見たときには、私たちは己の無力さを実感します。「私には何もできない」と。しかし、教会という「キリストの苦難を我が事とする者たちの共同体」においては、苦難は共同で担われるものとなるのです。「キリストの力によって闘う」とパウロは言います。この「キリストの力」とは、キリストの絶対的主権ではなく、むしろ地上におけるイエスの弱さです。
イエスが苦しまれたとき、私たちは何もできませんでした。それどころか、彼の死を心の底から望んだのです。しかし、それが誤りだったと痛感した私たちは、苦しむ兄弟姉妹を目の前にして、今回こそはこの苦しみと闘うのだと決断するのです。

 パウロは私たちに勧告します。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れるな」と。その勧告は一読すると、信仰生活の苦難と孤独を強調しているようです。しかし、ここで私たちは、自らが教会というキリストの体に仕える者であることを思い起こしたいのです。救いへの招きに応えた私たちは、終わりの日まで宣教に励み、その苦難を共に担い合う共同体でありたいと願うのです。

2022年10月23日(日)の主日礼拝 [主日礼拝のご案内]

2022年10月23日(日)午前10時30分
降誕前第9主日
於:栄光館ファウラーチャペル
説 教:「ただ、神の国を」
              伝道師 大垣友行
聖 書:ルカによる福音書12章13〜31節
招 詞:詩編124編8節
讃美歌:24,224(1・2・3節),514(1・2・3・4節),91(1節)

(オンライン礼拝視聴申し込みフォーム)
https://forms.gle/JnJshLvcWuMekSFR6
(礼拝式順序(週報)ダウンロード)
https://www.doshishachurch.jp/home/weekly

※オンライン礼拝への参加(視聴)には、事前にお申し込みが必要です。上記フォームからお申し込みいただきますと、以降、毎主日(日曜)の礼拝配信URL(毎回異なります)をお送りいたします。
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※当日の配信は午前10時25分ごろから始まります。ご視聴の準備をしていただき、礼拝の始まりをお待ちください。
※お手元に聖書・讃美歌集をご用意の上、礼拝にご参加いただけましたら幸いです。同志社教会では、聖書は日本聖書協会『新共同訳聖書』を、讃美歌集は日本基督教団讃美歌委員会『讃美歌21』を使用しています。

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